第1回靖国問題学習会
日時:7月23日(金)14時-17時
場所:蒲田御園教会
講演:「韓国併合100年にあたって、共生社会のために」
~天皇制と植民地主義を考えてみよう~
講師:古賀清敬(北海道中会宣教教師)
6月6日の礼拝予定
説教題:「民衆全体から好意をよせられた」
説 教: 三輪地塩 牧師
聖書箇所:(旧約)イザヤ書 44:1-8
(新約)使徒言行録 2:37-47
讃美歌 :(21)83、6、204、402、79、27
『ペトロの説教』
<5月30日の説教から>
使徒言行録2章14節-36節
牧師 三輪地塩
このペトロの説教は私たちに、週毎の礼拝式順序を思い起こさせます。勿論意図して書かれたわけではありませんが、人が神に招かれ、罪を自覚し、御言葉に慰められてキリスト者になるということは、このようなプロセスを辿るのだと暗示されているかのようです。つまり私たちの礼拝式というのは、単に儀式的な順序、セレモニーとして整えられただけの順序なのではなく、私たちが救いに導かれるプロセスがこの1時間という小さな時間の中に込められている、ということです。この礼拝の中で語られた御言葉を、私たちが自分の事柄として受け止め、自分が悔い改めへと導かれるための糧として、自らのものにする作業こそが、礼拝への参加であり、御言葉に、又説教に聞く、ということなのではないでしょうか。
語る者は真剣に語り、それと同時に、聞く者が全身全霊を傾けて聞く者でなければ、説教は神の御言葉としての御言葉性を失ってしまいます。礼拝は出席することそれ自体に意味があるというより、むしろ、その中から自らへ問い掛けられた言葉を捜す作業です。神様の招きの意味を礼拝の中から見出すのです。聖書の中に、説教の中に、讃美歌の中に、祈りの中に、オルガンの奏楽の中に、礼拝の奉仕や、招きの言葉の中にでさえも、神様を見出すことが出来たならば、それがあなたへの御言葉です。だからこそ説教者同様、礼拝者も御言葉の解釈者であると言えるのです。耳を澄まして、目を凝らして、神様があなたに今日語る言葉を、自らの心で、自らの信仰で、聞こうではありませんか。
特別伝道礼拝
2010年6月20日(日)10:30~
「平和の剣をそなえなさい」
説 教 三輪地塩 牧師
「神との出会い」――わたしの信仰の過去・現在・将来――
さいたま市浦和区仲町4-8-2
Tel. 048-861-9881
聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記4章1節-26節 2010年5月27日
今日の箇所はカインとアベルの物語です。何度も聞いてきたことのあるこの話の中に込められた神様の言葉を共に聞きたいと思います。ブルッグマンという旧約学者はこの箇所について、「この世の中は、兄弟殺しが如何に醜悪で受け入れ難い行為であるかを知っている。わざわざ聖書に宣言させるまでもない。それゆえに我々は、この物語を道徳的な観点から取り扱うことによってつまらなくしてはいけない。」このように述べています。事実この箇所において兄弟殺しという事柄それ自体は、特にどのような仕方で、どのように行なわれたかについては述べられえておりませんで、8節のみによって手早く取り扱われております。つまりこの物語の語り手にとって重要なのは、人が罪を犯すこと、犯した罪が自らをどう蝕んでいくかということ。そして神と殺人者との関係、であります。
そもそも人間世界において、「兄弟」という現実「姉妹」という現実は、それ自体喜びであり、厄介な問題ともなりえます。興味深いことに創世記は、全体を通して「兄弟」というテーマが、通奏低音として流れていることが分かります。アブラハムの系図では、イサク、ヤコブと続きますが、このヤコブの12人の兄弟が骨肉の争いを繰り広げることはご承知の通りであります。私たちが兄弟と共に生き、兄弟とのディレンマに満ちた歩みが与えられたことそれ自体が、神様からの恵みであり、また試練であるとも言えるのではないかと思うのです。
さて、本文を見てみましょう。3章でエデンの園を追放されたアダムとエバが二人の子をもうけます。長男はカイン、次男はアベルでありました。カインは農夫に、アベルは羊飼いになったといいます。ユダヤにおいて通常長男が優勢に立つことは当たり前のことでしたから、この物語を読んだ人は誰もが、カインはアベルに対して優位な立場にいすることは当然のこと感じたのであろうと思います。
カインという名前は、ヘブル語のカーナー「得る、造り出す」という動詞に由来しています。人の名前は神様での讃美として与えられるものと考えられていた文化の中にあって、カインという名前は喜び祝われた者を意味し、神様に存分に目を留められていることが分かります。つまり生命力の具現、生命への可能性が示されています。それに対してアベルという名前は「空気、無」という意味でありまして、生命の可能性のなさが示されています。この時点で聖書は、カインへの祝福が確証されたものという位置づけにするわけです。そして当然カイン自身も、自らの優位性と生命への可能性を自負する者として、すなわち長男として生きることの誇りと、同時に驕りを持っていたのでありましょう。そのため彼は、神様が自分の献げ物に目を留めなかったことに憤慨し、「激しく怒って顔を伏せた」のでありましょう。
よく疑問にされることは、なぜカインの献げ物がいけなかったのか、ということでありますが、聖書にははっきりとその理由について語られておりません。一つの説として挙げられるのは、カインが単に「土の実りの物」を献げたのに対して、アベルは「羊の群れの中から越えた初子」を持ってきたからだ、とよく言われます。カロリー計算にうるさい現代人にとって、脂肪分はカットされるべきものという感覚があるかもしれませんが、飽食の民であるから言えることでありまして、砂漠の民、荒れ野の民からすれば、脂肪分は人間の摂取すべき大切な栄養源であり、大変に高価なものでありました。その高価なものを、さらにたくさんいる群れの中から良いものを選び出して献げたアベルの思いを神様が認めた、ということは想像に難くないことであろうと思います。しかし聖書は、状況証拠を残しつつも、明確な理由を述べておりません。実はここが大事なのではないかとも思います。つまり私たちはカインとアベルの行いの中に、どちらの中に非があり、どうすればそれを回避できたか、という因果関係を見つけ出そうとして聖書を読むと思います。なぜ神様はカインの献げ物を喜ばれなかったのだろう、神様がベジタリアンであればあるいはカインの方を喜ばれたのかもしれない、などとその理由付けをすると思うのです。しかし時として聖書は、私たち人間が求める合理的な説明や、納得のいく、説得力のある答えを提示してくれないことがあります。こうすれば神様は喜ばれる、と分かっているなら誰でもそのようにするでしょう。神様を信じていなくても、そうしておけば損は無い、無難に祀っておけとばかりに神様の好きなものを献げるでしょう。しかし今日の箇所が私たちに示すのは、神様の御心は分からない、ということであります。至極当たり前のことでありますが、意外とそのことを私たちは見落としがちです。どうすれば神が喜ばれるのか、何がすきなのか。そのことは聖書を読んでみても、ある程度しか分かりません。有限の私たちが、無限の存在である神様の細部にわたる思いを知ことなど到底不可能だということであります。
つまり私たちは、神様の前にへりくだる、謙虚に身を慎む、ということしか出来ないと思うのです。神様の御心を何もかも知っている、と信じて疑わなかったのが、ファリサイ派の人たちです。イエス様はその彼らに否を唱えました。神の御心は神ご自身がお決めになる、と言って、律法主義的な神様の間違いを暴いたのです。
私たちにとって神様とは、支え、守り、導いてくださる方であると同時に、絶対他者である方であります。私たちがどうあがいてもこれに太刀打ちできない、神の主権の下で働かれる絶対他者。これが我々の信じる神であるのです。その意味において、カインの献げ物を喜ばれなかったことは、神の下に正しく、私たちはそれを受け入れる民でしかありえないのです。その意味で、今日の箇所に対して私たちは、神様の行いの正しさや真偽を問うのではなく、絶対者である神様のなさった答えに対してカインがどう答えたのか、このことが重要になってくるのです。
自分の献げ物に目を留められなかったカインに対して、6節で主は言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しくないなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。このように言われました。難しい表現ですのでこれを意訳するとこうなります。「良心にやましいことがなければ、落胆する必要はない。もしやましいことがあるなら、現在の自然な感情を、自分でコントロールせよ。野放しにされた感情は、あなたを罪へと巻き込んでいく」。このようになります。
つまりここでカインの中にやましさがあったと受け取ることも出来ます。カインの献げ物には心が無かった。神様への最も良いものを献げるという信仰がなかった。だからカインは感情を野放しにする方を選んだのではないでしょうか。
最初の人間の死は、自然死ではなく、殺人でありました。このことが人間を象徴している、皮肉と言う事もできましょう。カインの兄弟殺しについては、8節のみに記されています。どうやって声を掛け、どのあたりの野原に連れて行き、何によって殺したのか、などの詳細な描写は省かれています。つまり最初に申し上げましたが、ここで重要なのは、カインの殺人それ自体ではなく、彼の罪に至る心なのです。
9節~16節は「カインの裁判」と呼んでいる注解者がおりました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と主は呼ばれました。しかしこれは本当にどこにいるのか分からなくて言ったのではなく、カインが自分の罪にどう向き合い、どう悔い改めていくかを促す言葉と捉えてよいと思います。
カインは結果的に、さまよい人として追放されることになりました。アダムとエバがエデンから追放されたことも記憶に新しいのに、その長男が次男を殺し、同じく追放されてしまうわけです。これが人間の現実だと聖書は言います。林嗣夫先生は、この追放されたカインを「選びの民から外されたという意味で最初の異邦人である」と言っています。面白い解釈であると思いつつ、それもまた事実であるとも思います。しかしこの異邦人となったカインのために、神様はどうなさったでしょうか。選びの民から外れた、罪を犯した、しかも殺人という神の似姿としての人間を殺すという罪の最たるものを見せ付けられる出来事に対して、神のなさり方は、私たちの想像を遥かに超えるものとなりました。
すなわちこうです。13節「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負い切れません。今日あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう。』主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ、7倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者が誰も彼を打つ事の無いように、カインにしるしをつけられた」。このうに神様は宣言なさいます。神様は、兄弟と和解をせず、一方的に殺すという行為に走ったこの一人の人間を、手放さなしませんでした。混乱の状態の中にあるカインをも主はお招きになります。神は彼に安全の保証としてのしるしを与え、遠く離れた場所においても祝福を受けることを確認させるのです。最後に旧約学者のブルッグマンの言葉を引用して終わりたいと思います。「聖書の信仰は明快である。兄弟に対する粗暴な振る舞いは、死に値する行為である。しかしそれにもかかわらず、生きる事を求める神の御旨は、死の判決を受けた者に対しても働いている。~神は殺人を犯す者に対しても関心を失っておらず、彼について諦めておられないことを告げているのである」(現代聖書注解「創世記」)。
聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記3章1節-24節(Ⅱ) 2010年5月20日
蛇の誘惑を受けたエバは、決して食べてはならない「善悪の知識の木」から取って食べ、またアダムも同じくそれを口にしました。それによって彼らは自らが裸であることを悟り、イチジクの葉をつづり合わせて腰布とした、とあります。
今日の箇所3章の後半は、神様が庭師であるアダムとエバを呼び、彼らに説明を求めていることが書かれています。前回も申し上げましたが、神様はまずアダムに説明を求め、彼はエバの責任(ひいてはエバを作った神様の責任にしている!)にし、エバは蛇の責任にしています。そして面白いことに、神様は蛇に対して説明を求めていないわけです。私たちはこの箇所を読むとき、なぜ蛇がアダムとエバを誘惑したのか、という疑問が沸き起こると思います。誘惑するということはこの蛇にとって何らかのメリットがなければそんな唆しはしないし、見つかった場合自分にもその罪が振り掛かるわけですから、理由無く危ない橋を渡らせることはしないと思います。考えれば考えるほど疑問が出てきますが、しかしこの話の中で重要なのは、そういう細かいことを追及することではなくて、誘惑した者が悪いのではなく、神様との約束(契約)を知りながらも破ってしまう人間という存在に関して知るということ。それがこの箇所の中心点なのです。私たちは誘惑する人と、誘惑される人、どちらにも非があると考えます。しかし今日の箇所が言っているのは、誘惑される側、人間の側の問題の追及です。これは1章26節の我々の存在の本質とも関係しています。つまり、私たちが神の似姿として創造された、ということです。神の似姿、すなわち神の尊厳をまとったと看做されている人間が、神の約束を遵守できないものとなってしまったことが問題なのです。
神の似姿とは何か、ということが、1章を学んだ時に質問にあがりましたが、F.トリブルという旧約学者は「神の似姿とは、ちょうど月をさしている人差し指のようなものだ」と言います。「指そのものは月ではないけれども、その指が示す方向を見ていくと月を見ることが出来る。それと同じように男と女は神の形そのものではないけれども、男と女の関係を見ていくと神の像が何であるのかが分かる。そして神の像そのものは神ではないけれども、神の像とは何かを見ていくと神が分かる」。このように言います。 つまりここで問題になっているのは、男と女の関係の中で、責任の押し付け合いをしているこの関係性の中に神の似姿を示す指は存在しない、ということが暗示されているのではないかと思います。そのため、蛇の誘惑にではなく、誘惑に遭いそれに負けた神の似姿としての人間の責任を問うておられるのではないでしょうか。
ここでもう一つ注目したいことは、神様が最初に約束されたことがここで起こっていないということです。つまり、2章17節「ただし善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」このような約束がされていました。しかしここでアダムたちは生きているわけです。必ず死んでしまう、といいながらも、彼らはこのあとも暫く生き続けます。これは何を意味しているのか。ということが疑問になると思います。神様は嘘を言われたのだろうか。それとも神様の勘違いだったのだろうか。そんな議論もなされます。
しかしこれらの矛盾は、これまでに様々な聖書学者たちによって考えられてまいりました。そして大きく分けて5つの説に区分できる。
①死なない存在だった人間が死すべき存在となった。(E.Speiser U.Cassuto)
②古代人はこのような矛盾に気づかなかった。(H.Gunkel C.Westermann)
③神の寛容。(関根正雄)
④神との霊的な関係が絶たれる(並木浩一)。
⑤しかし関根清三は第5の説を提唱する。「~2:17において神が嘘を吐いた、との解釈であ る。~勿論この問いは我々の神義論的拒否感を引き起こすが、嘘には少なくとも二つの位相 がある。即ち、己の利益のために吐く嘘と他人のことを想って吐く嘘である。」(日本聖書 学研究所 「聖書の使信と伝達」 聖書学論集23 山本書店)この見解は大変興味深い。な るほど、熱いお茶の入った湯呑を触ろうとしている乳幼児に対し、母親は「火傷するから触 っちゃだめよ。」と、少々大袈裟に、実際は火傷をするような熱さでなくとも言うではない か。それこそ「己の利益のために吐く嘘」ではなく、まさに「他人のことを想って吐く嘘」 であるように思える。
以上のようにいくつもの説があるわけですが、重要なことは、ここでは実際の生命的な断絶としての死がもたらされた、というよりも、『神様との関係との断絶』が語られているのではないか、ということであります。私たちは3章5節の「どれを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」の言葉が、一つのキーワードになっていることに注目したいのです。つまりここに示されているのは、人間が人間であることをやめて神のようになる、という人間が心の奥底で持つ高ぶり(おごり)の心であります。私たち人間の中には、人間であることよりも、神のようになりたい、という超人的な存在となる事を求める心があるということです。
川端純四郎という先生が次のようなことを言いました。
宗教というものは、大きく分けて3つのパターンによって成り立っている。仏教型、新興宗教型、キリスト教型の3つである。仏教型は「無の宗教」。つまり諦めの中と、人間が人間という存在に固執しない中に生きることによって解脱し、この世的な感覚から抜け出すことが出来るものである。そして2つ目の新興宗教型は、人間が人間の限界に挑戦し、人間であることから神の領域へと向かおうとする、超人になろうとする宗教である。これは特にオウム真理教が問題を起こした時に報道されていた通り、水の中で何分間息を止めていられるか、修行によって座禅のまま宙に浮くことが出来るのか、などのようなものである。しかしキリスト教型は和解の宗教と川端氏は言う。神との関係の修復、関係性の再構築。これが神との和解である。
前前回から言っていることですが、彼らは裸であった「ので」恥ずかしがりはしなかった、という読み方が採用されるならば、この二人はお互いに向き合って、素直な関係の中に生き、そして支えあうために神様は男と女を創造された、と言う事ができます。しかし善悪の知識の木の実を食べ、彼らはお互いに隠しあう存在となりました。そしてお互いのみならず、神様からも自らの身を隠す
者となりました。10節「彼は答えた。あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」。アダムはこのような自己意識を持つのです。つまりここに「必ず死んでしまう」という主の約束された言葉の真実の意味があると思うのです。蛇が問題にしていたのは、生物学的な生命活動の停止としての死でありました。しかし神様が問題にしていたのは、神と人との関係の死であったということです。それは神と人間との関係の崩壊であり、人間が神から授かった人間性を喪失した、ということなのです。ここに人間の原罪があり、この罪の中に人間は生きる存在となってしまった、というのです。
この原罪を持ってしまった人間に対して神様は14節で、「このようなことをしたお前は、~呪われるものとなった」と言い、男と女に別々の苦しみを課せられます。なぜ女性は苦しんで子供を産むのか。なぜ男性は地を耕して生涯ひたいに汗して働き、遂には死んで塵に帰るのか、の理由がここに示されています。それが15節から19節に書かれている内容です。
この中で一つだけ言うべきことは、16節の「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む」。という翻訳は実は間違っているのではないか、と言われだしたということです。以前この箇所の言葉は完全な人間への神の呪いとして考えられてきました。しかし現在の研究によりますと、ここには神の呪いと同時に、神の祝福が語られている、という読み方です。
ここでは「孕みの苦しみ」とか「苦しんで子を産む」のように、孕みと苦しみ、出産と苦しみを続けて訳されています。これは直訳ですと、「あなたの苦しみと妊娠を大いに増す。あなたは苦しみの中で息子たちを産む」となる、というのです。つまりここでいう「苦しみ」は出産の苦しみではなく、生活上の諸々の労苦としての苦しみであると。そういう多くの労苦があっても、その中で神の祝福としての妊娠、子供たちの出産が約束されているということであるから、ここに祝福があるのだ、という解釈であります。創世記が書かれた当時のユダヤ人にとって父権制社会が当たり前ですし、妊娠は神の祝福、子ができないのは神の呪い、という直接的な価値感覚の中で生きていましたから、妊娠は言葉上それだけで祝福なわけです。ですから出産の苦しみが神の戒めを破ったことに対する罰である、という理解は修正されねばならない、とある学者たちは言うわけです。
そして最後の20節~24節に、この女性が「エバ」と名付けられたと記されています。理由は彼女が全て命あるものの母となったからであると言います。(ハッバー(ヘブル)「命」)。彼女は命との強い結びつきが意識されてエバと名付けられました。なぜ彼女が命と強く結びついているのかは明らかではありませんが、おそらく2章23節の言葉、アダムとの関係つまり人間同士の関係と、神との関係を、罪と生命の中で問おうとする、という意味で、彼女は人間の本質としての「命」をその名前に受けた、のではないでしょうか。
そのアダムとエバですが、彼らは結果的に、罪を犯しました。そしてエデンの園からの追放。つまり失楽園の出来事を迎えるわけです。23節「主なる神は彼をエデンの園から追い出し~」とあるように、神様は2人を追放したということです。約束を破ったペナルティーは失楽園でありました。しかし私たちは一つの言葉に注目したいのです。それは、23節の追放の言葉の前に、21節「主なる神は、アダムと女に、皮のころもを作って着せられた」。このようにあります。これは明らかに審きを越えた神様の保護であります。神様は彼らの罪をほったらかしに致しません。厳しく追及なさり、罰を与えられます。しかし裁くと同時に保護するのです。これが創世記の著者の神理解であります。神は裁いて追放して、あとは知りません、というのではなく、人間に対して、神様はどこまでも人格関係の中に立とうとなさっている、ということです。人間は神の前から身を隠し、避けてやり過ごそうとします。しかし神は人間に向きあうのです。逃亡しようとした人間に対して、向き合おうとしない我々に対して、その関係に否定せず、むしろ保護されるというのです。ここに創世記の書かれた状況による、神理解が示されています。神は捨て置かれない。たとえバビロン捕囚に遭って人質となろうとも、この捕らわれた我々は神に捨てられたわけではなく、今尚、神の保護を受ける存在足りえるのだ。犯した罪は非常に大きい。神との約束からの離反。破戒を行なった人間がいる。しかし神はそのような私たちですらも守られ、愛される方であるわけです。「神はその一人子を世の中にお与えになったほどに、世を愛された」と言われる神がここにおられる。このことを覚えたいと思います。