使徒言行録3章11節-26節 主日礼拝説教 2010年6月27日

使徒言行録3章11節-26節
『悔い改めて立ち帰りなさい』

 ギリシャ哲学の祖である、ソクラテスは、「無知の知」という事を言いました。それは「自分の無知を自覚する事から全ての知への探求が始まるのだ」ということであります。確かに自分は何でも知っている、という人ほど、怪しいものはありません。それは「私は神の使いである」と言ってのける怪しい宗教者も同じでありましょう。自分には力が無い、そのことから人間は謙虚さを学び、真理の追究が始まるのでしょう。

 さて、今日の箇所でペトロとヨハネは、12節でこう言います。’「イスラエルの人たち。なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたように、なぜ、私たちを見つめるのですか」‘。これは前の箇所からの続きとして語られています。つまり3章1節~10節の出来事、「生まれながら足の不自由な男性」が「立ち歩き出した」という奇跡を目の当たりにした民衆が、ペトロたちの起した奇跡に感心し、驚いていたことによって、12節で彼らは言っているのです。しかし奇跡は自分の力ではなく、神の力によるものだ、と強調いたします。つまり「ソクラテスの無知の知」ではありませんが、「自分に力が無いことを認め、力は神のみにあることを認める」という立場で宣教に臨んでいるのです。

 しかし彼らの興味関心は、「奇跡を実現させた力の所在」ではなく「この民の罪の責任」に強調点がおかれているのです。13節から14節までで語られているペトロの言葉は、十字架の出来事を具体的に言い表した、鋭い言葉であります。本来ならば命に導くはずの「命の主イエス」を殺した、それは自分の命を殺したのも同然の愚かなことであった、という事を鋭く暴き出しております。

 しかしペトロは、17節で、’「あなた方があんなことをしてしまったのは、指導者たちを同様に無知のためであったと私には分かっています」‘と、ユダヤ人の行なった所業に関して情状酌量を認めているように言われています。それはペトロという人物が、同じ民族、同胞であるユダヤ人に対して、その回心を求めているからでありましょう。今日の箇所を全体通して見てみますと、ペトロはユダヤ人に悔い改めを求め、出来ることならユダヤ人がキリストを信じる者として立ち帰ってほしい、という強い願いが示されているように読み取れます。もちろん私たちも、同じ日本人の回心を求める者たちとして、このペトロの気持ちは良くわかります。けれども聖書があらゆる箇所で、ユダヤ人の回心に関して語るとき、第一義的にユダヤ人、次に異邦人、というニュアンスで語られているように感じてしまいます。

 例えばローマ書2章9節にあるような’「ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも」‘という言葉に出会いますとき、私自身、本当に引っかかりを感じておりました。何故かといいますと、ヤハウェの神がユダヤ人の神であり、ギリシャ人もしくは異邦人はそのおこぼれに預かる者として、第二義的な救いの余り物を頂いているように読めてしまうからであります。私自身そう感じてならなかったのです。それは完全な民族主義でありますし、ユダヤ民族の宗教から脱し得ない「選民思想の最たるものだ」と、そのように感じてきたのであります。ですから今日の箇所のような、ユダヤ人に回心を求める箇所には、聊かならぬ抵抗を感じておりました。

 けれども、今日の御言葉に接し、この長い箇所全体を通し紐解いてみて、まったく違ったことを感じて聖書を読むことが出来たのであります。それは私自身の「バカの壁」が、取り払われる瞬間でありました。つまり今日の箇所で語られていることは、確かにユダヤ人を対象として語られているけれども、このユダヤ人とは民族主義的なユダヤ人のことではなく、’「罪ある全ての霊的なユダヤ人」‘ということではないか。’「ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも」‘と聖書が言う「ユダヤ人」とは、文字通りのユダヤ人を指しているのではなく全ての罪人、すなわち私たちのことだ、ということであります。神を信じているが、しかし神の約束を信じきることの出来ない者たち。つまり私たち。キリストの言葉に心開かれるがしかし、最終的には「そんな人は知らない」と三度に渡って神の御子を否んでしまう罪を持つ私たち。「十字架につけろ、十字架につけろ」と民衆意識を煽り立て、感情的に周りの人々に巻き込まれるようにしてこの独り子を十字架に追いやってしまった私たち。それがここで言われている「ユダヤ人」であり、ひいてはここにいる私たち姿なのではないだろうか。と、そう感じたのであります。

 私たちが聖書に書かれている「ユダヤ人」という言葉を聞きますとき、どうしても他人事のように感じてしまうのではないでしょうか。ヘロデに掛け合って主イエスを裁判に仕向けたのも、ピラトに詰め寄って「バラバを解放せよ」と叫び続けたのも、自分たちとは何の関係もない、あのユダヤ人の成した所業である、と、心のどこかで主イエスを十字架につけた罪を、他人の責任にし、客観視している自分が、心のどこかにいるのではないでしょうか。自分はキリストを十字架に掛けていない。欠けたのはユダヤ人だ。もし私がゴルゴタに居たら、キリストを十字架から引き摺り下ろして、力ずくでもキリストをお救い申し上げたのに。と、そう考えることがありはしませんでしょうか。しかしもしそう思っているならば、その人こそがキリストを十字架に掛けた、あるいは銀貨30枚でキリストを引き渡した張本人であると言えるのです。「無知の知」ならぬ「無知の罪」であります。自分は罪を犯していない、と思い込んでいる罪、なのです。

 つまり私たちこそがキリストの十字架の罪と最も関係の深い者たちなのだ、このことに気付かなければ、私たちの信仰も信仰生活も、全くの徒労に終わってしまうのです。このユダヤ人の罪こそが自分の罪。この裏切りこそが私たちの裏切り。そう認識することから、全ての救いが始まるのであります。「私は知らないという事を知ることから知ることが始まる」ように「自分が罪人であると知ることから、救いへの道が始まる」のであります。

 今日の箇所をもう一度良くみてみましょう。23節’「この預言者に耳を傾けない者は皆、サムエルをはじめそののちに預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であ
り、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です」
‘。このように言われております。つまりこの十字架の罪に直接的に関わった者たちに対して、「あなた方こそが神さまの契約の子である」と認められているのです。契約の子とはすなわち「神の救いの中に入れられた、救いを確証された者」であります。「もう二度と滅ぼすことは無い」と言って、救いの虹を見せて下さったあの契約。シナイ山で神の救いの律法を与え下さったあの契約であります。十字架につけた張本人であるこの私が。そのあなたが。救いを確証された契約の子その者である、と聖書は言うのです。

 今日の箇所は、ユダヤ人に対する糾弾と言いうるほどの厳しい言葉に溢れています。特に13節’「ところがあなた方は、このイエスを引渡し、ピラトが釈放しようと決めているのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで人殺しの男を赦すように要求したのです。」‘このような言葉に、厳しいユダヤ人への責めと糾弾が込められているように感じてなりません。しかしよく読んでみますと、実はそれを遥かに凌ぐ恵に満ち溢れている箇所であることに気が付きます。それは26節です’「それで神は、ご自分のしもべを立て、まず、あなたがたのもとに遣わして下さったのです」‘。この言葉であります。このどこが恵みに満ちているのか、ということですが、それは’「まず」‘という小さな言葉であります。神は’「まず」‘主イエスをあなた方のところに遣わした、ということです。「まず」というのは「最初に」と言い換えても良いかも知れません。神は最初に、ユダヤ人のところに主イエスをお遣わしになった。神は一番最初に、最も罪深いユダヤ人のところに主イエスをお遣わしになった。ということだからであります。つまり、神は誰よりも先に、最も罪深い私たちのところに、十字架と無縁ではなく、むしろ最も身近なところで十字架の処刑に関与したこの私たちの罪のところに、御子イエス・キリストを、「まず」お遣わしになったのだ。これが神さまの私たちへのメッセージなのであります。罪あるところにキリストを派遣なされた。罪の最も深い場所に、キリストの贖いを与えて下さった。これこそが、今日の箇所で語られる、神の恵みの言葉なのであります。19節’「だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」‘。この言葉に導かれて、悔い改めの生活と共に、歩もうではありませんか。

6月27日の礼拝

【主日礼拝】‘ 10時30分~(約1時間)

説教題:’「悔い改めて立ち帰りなさい」‘ 

説 教: 三 輪 地 塩

聖 書:(旧約) 申命記 18:15-22
    (新約) 使徒言行録3:11-26 

讃美歌:(21)83、130、211、404、27

奏楽者: 田 端 誠 治

6月21日~6月26日の集会予定

○浦和教職者会       21日(月) 午前10:00

○聖書の学びと祈り     23日(水) 午後 7:30
   ヨハネによる福音書1:1‐18  司会 安 井 国 雄
    (担当 三 浦 勇 二 )

○聖書の学びと祈り     24日(木) 午前10:00
  創世記 8章           司会 志 賀 洋 子
    (担当 三 輪 地 塩)

○中連婦委員会との協議会  24日(木) 午前11:30

○オルガン講習会      26日(土) 11時―13時

キリスト教入門の会

「キリスト教入門の会」
  暫く休会していましたが、6月27日(日)から再開します。
  担当は三浦勇二長老  午前9:45~10:15
     

ルカによる福音書22章35節-38節 『平和の剣を備えなさい』 2010年6月20日

ルカによる福音書22章35節-38節
『平和の剣を備えなさい』‘ ’(特別伝道礼拝説教)

日本人に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルでありますが、彼らが伝道した当時の日本は戦国時代の最中にあり、時の権力者織田信長の下に庇護を受け、順調に宣教活動を行っていきます。当時のクリスチャン人口は50万人とも80万人とも言われ、全人口の割合としては、2~3%ものクリスチャンがいたと推定されています。つまり、日本においてキリスト教が最も栄えた時代であるといえます。 信長がキリスト教を保護した理由については諸説あるにせよ、日本のキリスト教にとっては良い時代であったことには間違いありません。

 けれども、豊臣秀吉が政権を奪い、それまで保護されていたクリスチャンたちは一転して受難の時を迎えます。1587年、「伴天連追放令」が発布され、キリシタンたちは弾圧されるわけです。それまで全国各地で敬われ、歓迎され、親切にもてなされていた宣教師たちは、一転して禁教令政策の槍玉に挙げられたのであります。それは手のひらを返すような出来事であり、全く違う時が訪れた瞬間でもあったわけです。徳川家光の時代には、「寺請け制度」によって、全ての日本人が仏教徒として登録されました。また踏み絵による「キリシタン狩り」も行われました。1639年以降は、後に「鎖国」と呼ばれるようになりますが、外国との貿易を徹底的に制限する政策が取られていくわけです。そこからキリシタン弾圧がさらに激しくなっていくことは歴史が証言している通りであります。

 かつては受け入れられる時代があり、それが一変してしまう。その中にあって、当時のキリシタンたちは、所謂「カクレ・キリシタン」と呼ばれる、地下組織的な信仰の継承を余儀なくされていきます。それは信仰というものが、国家や権力などに左右されやすく、それによって状況が如何様にも変わり得ることの最たる出来事でありました。それまでは町の人々に歓迎され、敬われ、親切にもてなされていた宣教師たちに、今や全く異なる時代が訪れたことを知らせる瞬間でありました。
 
 さて、今日の箇所を見てみましょう。35節’「それからイエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか』。彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと」‘と、このように言われています。弟子たちはかつて受け入れられた状況にありました。ルカ福音書9章1節を見てみますと、12人の弟子たちが宣教のために派遣されたことが記されております。9章3節にはこのように書かれています。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」このように言われておりました。それは当時の町の人々が、弟子たちの携える宣教の言葉に耳を傾ける時代であったことが分かります。それはちょうど「日本におけるキリスト教の世紀」と呼ばれた時代のように、宣教する者は歓迎され、敬われ、親しい交わりに預かっていたのであります。

 けれども今日の箇所で主イエスは言います。36節’「イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが「その人は犯罪人の一人に数えられた」‘と書かれていることは、私の身に必ず実現する。私に関わることは実現するからである』」。かつては受け入れられた時代があった。しかし今は全く違う時が訪れようとしている。このことを主イエスはおっしゃるのであります。それは国家において権力を持つものが、福音を保護するか否かによっているのです。どのような状況であれ、国家がこれを保護する時は、民衆もこれを歓迎する。しかし政治的権力を持つものがこれに睨みを利かせ、弾圧しようと目論むなら、信仰共同体はひとたまりもなく弱者へと変わっていってしまうのであります。それがこの時の主イエスの状況であり、弟子たちを取り囲む状況であったのです。

 今日の箇所は「それに対して備えをせよ」という主イエスの勧告であります。’『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』。‘このようにイエス様はおっしゃいます。これまでは皆、歓迎されてきた。けれども今は全く違う状況になった。ということであります。
この36節を読む限りにおいては、’「財布を持っていくこと」「袋を持っていくこと」「剣を備えること」‘の3つが’「備えるべきもの」‘として要求されているように感じます。しかし正確には、こういう文章です「持っている人は財布を取りなさい。袋も同じように。財布を持っていない人は服を売りなさい。そしてその代金で『剣を買いなさい』」、こういう意味であります。つまりこれらの行動の目的は’「剣を準備すること」‘に掛かっている言葉であるのです。

それに対して弟子たちの用意は周到でした。38節’「そこで彼らが『主よ、剣なら、この通りここに二振りあります』と言うと、イエスは『それでよい』と言われた」‘このようにあります。弟子たちは主イエスから要求されるであろう剣の用意を既にしていたのです。これまで間違いばかりの弟子たちでありましたが、最後の最後で主イエスの要求を前もって知ることが出来た、そのように読み取ることが出来るでしょう。イエス様に対して無理解であった弟子たちも、ようやく弟子としての役目を果たすことが出来た。良かったよかった、ということであります。

しかし、本当にそうなのでしょうか。日本語の聖書、とりわけ口語訳や新共同訳聖書では、イエス様のお答えになった’「それでよい」‘の言葉の意味が曖昧でありますから、弟子たちの行為を肯定しているように受け取ることが出来ます。しかし他の訳文を見てみますと、この言葉の意味が良く分かります。岩波訳の聖書ではここを’「それで十分なのか?」‘と訳します。またミュンデルという注解者は’「もうたくさんだ」‘と訳し、F.B.クラドックという注解者は’「この話はもう充分だ。この話題はここまででやめよう」‘。と意訳しています。つまり弟子たちはイエス様の真意を汲み取って二振りの剣を用意していたのではなく、この期に及んでも、やはり弟子たちは無理解だった、ということが示されて
いる、そのような主イエスの言葉なのであります。
「剣を備える」‘ということは何を意味するのでしょうか。剣とは、言わずと知れた「戦いの道具」であり「戦争の象徴」であります。それを準備するということは、弟子たちに臨戦態勢に入りなさい、という要求に他なりません。しかしこれまでイエス様の教えの中に、「戦争に備えなさい」というものはありませんでした。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」と言われましたが、決して「右の分もやり返しなさい」とは言われませんでした。「上着を取られたら下着をも差し出しなさい」と言われましたが、「上着の分も仕返ししなさい」とは言われませんでした。つまり、イエス様の福音には、愛の教えはあっても、憎しみの教えはない。攻撃や暴力の教えはないということであります。ですからここで「剣を用意しなさい」と言われているのは、実際の剣のことではなく、何かを譬えて語られているに相違ないと思うのです。

 私が感銘を受けた本の一つ、ウォルター・ウィンクという神学者が著した’『イエスと非暴力 第三の道』‘という本があります。その中で、一般的に悪に対する対処法は、人間の歴史上、二種類あると言われています。一つ目は無抵抗(すなわち悪を受け入れて為されるがままに任せること)。二つ目は暴力的対抗(暴力に対して暴力を持って対抗するということ)。であります。そして人間の歴史が私たちに提示してきたのは、「逃げるか戦うか」という2択だけであったというのです。しかしイエス・キリストは、この選択肢とは全く接点を持たない第3の道を示された。積極的に悪に立ち向かい、それでいて暴力を用いない戦い方、それこそが’「非暴力的闘争」‘という道であった、と言うのです。

 ルカ福音書22章50節で、弟子たちは、主イエスが連行されそうになったとき、大祭司の手下に向かって「その右の耳を切り落とした」と書かれております。つまり第二の道である「暴力的対抗」であります。しかし一転して、大祭司の中庭でペトロに嫌疑が掛けられたとき、「私はあの人を知らない」と三度に渡って主イエスとの関係を否定したのです。つまり第一の道である、「無抵抗」「逃げる」という対処の仕方であります。

 では第三の道とはどういう道でしょうか。単に耐え忍ぶという道でもなく、無我の境地に立つ、という道でもありません。インド独立運動の立役者マハトマ・ガンジーは、主イエスの非暴力に感銘を受けて自らそれを実践したといわれますが、彼は非暴力の道を次のように言い表しました。
「武器を取る勇気のない者や、自分は暴力を用いる抵抗運動はできないと考える者は、非暴力運動はできない。非暴力は、死ぬことを恐れるような者や抵抗する力を持たない者には教えることが出来ないものである」「非暴力においては、かつて自分がそれに熟練していた武器よりも、はるかに勝る、非暴力の力を身につけたと実感できない限り、その者は非暴力とは何の関係もない者でしかなく、結局は武器に戻ってしまうだろう」‘。
 このように言いました。すなわちガンジーは、主イエスの言葉の真意を汲み取ってこのように言ったのであります。「剣のない者は服を売ってでもそれを用意しなさい」という主イエスの言葉は、自らが十字架に向かうという予告であるばかりでなく、弟子たちに戦う勇気があるか、と問う信仰の告白を求める言葉に他ならないのであります。「私がこれから追うべき十字架を、あなたも負う勇気があるか。確かに今の状況は、歓迎された、喜ばしいものではない。迫害を受けつつあるかもしれない。しかしその中で、悪に対して、悪に立ち向かう気概を持ち、剣ではなく、剣よりもはるかにまさる剣を持って戦う意思があるか」、と、弟子たちにそして私たちに問うているのであります。

 剣に勝る剣、それこそが福音に他なりません。その剣を、服を売り払ってでも買いなさい、用意しなさいと主は言われます。服とは必需品のことであります。なくてはならない、なくなったら困る、大切なもの。しかしそれを売り払ってでも、つまり自分がこれまで大切にしてきた全ての物や事柄を捨て去ってでも、剣に勝る剣を準備しなさい。といわれているのです。
 キリストの福音とは、「神の愛の力」であります。その福音をもって、自分に悪を行う者に対して、愛を行えるか。自分を罵倒し、迫害する者に対して、愛を行えるか。そのことを弟子たちに、そして私たち迫っているのであります。「平和の剣を備えなさい」主はそうおっしゃいます。それはあなたのうちに、第三の道である、福音による剣が備わっているか、ということであります。敵を愛すること、自分を憎む者を赦すことは決して容易いことではありません。しかしイエス・キリストの十字架が私たちの前に聳え立つのであるならば、それを私たちの平和の剣として、愛しうる者となれるのであります。悪に対し、逃げることではなく、暴力によってでもなく、ただ只管に第三の道である、福音を力とする道に突き進みたいのであります。この世の中は混沌としています。暴力も悪も絶えることがありません。しかしキリストの福音に聞き従うことが出来るならば、この世に愛の実を実らせることが出来るのであります。平和の剣を備えなさい。このキリストの要求に、従ってまいりたいと思うものであります。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記7章1節-24節

祈祷会奨励 創世記7章1節-24節 2010年6月17日
 ノアの物語の第2回目です。今日は創世記7章から御言葉に聞きたいと思います。まず前回のおさらいをしたいと思います。前回は「ノアが神に従う無垢な人であったから救われたのではない」と言いました。つまり彼の正しさと正義が彼を救ったのではない、ということです。これに対して、少なからず疑問が起こっているような雰囲気がありましたので、もう少し説明を加えたいと思います。
 J.C.L.ギブソンという旧約学者が、端的に語っているのがありましたのでご紹介します。
「ノアについて言うならば、ノアがちょっとした聖人君子で、彼が救われたのは彼が善であり彼の時代の人々が悪であったからだと思わされるかもしれない。ノアにはとがめられるべきことは何もなかった。あるいは英語訳のように『完全であった』。しかしノアに用いられた他の言葉は、ヘブル語では正しい行動、というよりもむしろ正しい態度、というニュアンスを帯びている。謎めいているエノクのように、ノアは『神と共に歩んだ』。ノアは神の側を選んだ。そしてノアは正しかった。この聖書の好む、『正しい』という言葉は、『自分自身を他人より良いと考える人ではなく、神と共にいて正しさの中におり、神がその人に対して正しい態度を取る人』を示す」
 このように書かれていました。つまりノアが正しい行いをしたからその行ないが彼を救った、というように「行い」や「行為」をダイレクトに救いに結びつけてしまっては「功なくして罪の赦しを得」「功績なしに罪が赦され」という信仰箇条の告白は意味を成さないものになってしまいます。私たちに与えられる救いは、功徳を積んでいく結果にもたらされるものではないことを覚えておきたいものです。勿論、神の下に自らを律して生きることは非常に大切なことです。それは神によって変えられる信仰者の姿であると言えます。それ自体の素晴らしさを認めた上でのことというわけですので、間違わないようにしたいところです。
 さて、このようなノアですが、7章からいよいよ箱舟への乗船と、洪水の開始が語られます。この7章を目を凝らして読んでみますと、幾つかの矛盾点にお気づきになるかと思います。まず、雨の降り続いた日は何日かということです。12節では「40日40夜」と言われておりますし、17節でも同じく「洪水は40日間地上を覆った」と書かれております。けれども24節には「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とありますから、ここに矛盾が生ずるわけです。
 そしてもう一つは、箱舟に乗せる動物の数です。2節には「清い動物を全て7つがい、清くない動物をすべて1つがいずつ取りなさい」と書かれているのに対して、8節以下では「清い動物も清くない動物も、~すべて2つずつ」と書かれているのです。この大きな矛盾に関して、疑問を持つのではないかと思うわけです。
 結論から申しますと、再三申し上げているように、これはJ文書とP文書の、資料の違いという事です。「40日40夜と7つがい」の方がJ文書、「150日と2つずつ」の方がP文書ということになります。これが編み込みのように編纂されて、今のノア物語が形成されているのです。 
 しかしこのように一見矛盾することであっても、実はそうではない、という解釈もなされております。月本昭男という旧約学者が言っているのですが、P文書は全体を1年間の時間の枠組みの中に収めている、という見解です。つまり40日間雨が降り続き、150日間水がみなぎり、150日かけて水が引きます。そして最初の鳩を放って泊まるところがないので戻ってきますが、7日後にもう一度鳩を放ちます。オリーブの枝を持ってきたのを大地が乾いた徴として受け取り、それから7日間待ってから舟の扉を開ける、という経緯になっています。つまり40日+150日+150日+7日+7日=354日ということになりますが、これは当時の太陰暦の1年間とほぼ同じである、と月本氏は言います。
 また、ついの数に関しては、色々な見解があるわけですが、林嗣夫先生の「創世記」という本には(青少年のための聖書の学び「創世記」日キ教育委員会)次のように書かれております。’「~けれどもそういう役に立つ生き物だけでなく、神様はすべての生き物を一つがいずつ箱舟に入れ、絶えてしまわないようになさいました。その中には~いない方がいいと思われる~動物もいたでしょう。それでもノアは自分で勝手な判断をしないで、神様のご命令に従いました。勿論神様は人間に判断力を与え、それを使ってよい判断をするように導いてくださいます。しかし、ある時には、我々の常識をも判断をも超える命令を下されます」‘。このように書かれていました。つまり人間が正しいと判断することがいつも正しいわけではなく、心が罪に傾いている我々は、常に神様の御心に問い続けていかなければならないのだということです。「正しい人はいない、一人もいない」「善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ書3章10節)と言われているとおりです。
 さて今日の箇所7章の中から二つの言葉に注目してみたいと思います。
 まず一つ目は、’「ノアたちが箱舟に乗り込んだ後、箱舟は水のおもてを漂った」‘という18節の言葉です。この「漂った」という言葉の中には、主体がノア(つまり人間)の側にあるのではなく、神の側にあるということが示されています。この箱舟の漂流が意味することは、一切を神様に委ねていたということ。動力もなく、舵もない、ただ神の言葉によってその命令の中で、生きるも死ぬるもただ主にのみぞある、という事に身を置いて委ねる姿がここにあります。ここにノアが無垢だという所以があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、神の国はこのような者たちのものである、と言って知恵も知識も、社会的な名誉もない小さな子どもを示しました。それは神が言われた通りに純粋に事を理解し、その通りに行なう、無垢なノアの姿を思い起こさせます。
 そして二つ目は、11節にある’「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」‘という言葉です。この「大いなる深淵」という言葉は、実は天地創造の場面に出てきました。1章2節’「地は混沌であって、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた」‘。そして1章7節’「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」‘。つまりイメージとしては、水を真中から分けて上と下にギュッと押し込んで、押しとどめて、今もそれを制御している、ということです。もし神が
この押さえつけている手を外されたらどうなるのか。天地創造の時の混沌の状態、無秩序の中に飲み込まれてしまうというのです。原初に起こった状況はもう起こらないのではなく、神が制御をやめたとき、もう一度混沌が訪れる、ということです。つまり混沌という状況は、神の天地創造によって無くなったのではなく、神様が制御をやめればまた元に戻ってしまう、ということなのです。
 これは重要な神学的概念でして「継続的創造」(Creatio Continua)と言われています。私たちは神様の天地創造の箇所を読むとき、一度限りの出来事としてこれを読むのではないかと思います。つまり天地創造はもはや過去の出来事、私たちの生活に直接関係のない事柄であると考えてしまいがちなのです。しかし聖書は「そうではない」と言います。聖書は、神が現在も創造活動を継続されているということを語るのです。この継続的創造活動があればこそ、この世の中は天地創造以前にあった混沌の中に飲み込まれてしまうことがなく、私たちの世界は継続され、維持されているということなのです。
 ではこの世界で私たちはどう生きればよいのか。神様が継続され、未だ創造活動の中にあるこの世に対してどう生きればよいのだろうか、これを喚起し、問題提起を促しているのがこのノアの箱舟の物語であるように感じます。
 先週も言いましたが、メソポタミアなどの周辺諸国の類似の箱舟物語では、地上に人間が増えすぎてしまったために天上の神々が落ち着いて静かに過ごすことが出来なくなったため間引きしてしまおう、というのが洪水の原因でありました。しかし聖書は「人間の罪ゆえにである」とはっきりと述べます。また、6章1節-4節のネフィリム伝承が語るように、当時の王権に対する批判、体制批判がここに示されているわけです。このような世の中にし、人を人とも思わずに一部の人が世の中を牛耳っているこの世界に対して、神の御心が現されるように、という祈りがここに込められているのだと思います。
 ノアはアダムが死んだ後、初めて生まれた人ですから、言うならば、第二のアダムとして、人間の過ちが繰り返されるのではなく、善悪の木の実に手をかけることなく、神の命令に無垢に従って生きる生き方が現されているのです。これを読む我々は、果たしてどう生きればよいのでしょうか。単純にノアのように無垢に生きなさいということではなく、この世の中で、神の継続的創造活動に参与すること、関わることとは、現在の私たちにとって何を表しているのか。それは信仰者一人ひとりに与えられた、それぞれの生活の座において与えられる課題ではないでしょうか。そのことを今日の箇所から改めさせられます。