聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記11章27節-12章9節

創世記11章27節-12章9節  2010年7月15日
 今日から創世記は族長物語に入ります。本来12章からアブラハム物語が始まるわけですけれども、私はこの箇所を読むときいつも11章27節から読むのが適当であると感じてまいりました。それはアブラハムが祝福に至るまでの前史がここに記されているからです。12章から、特に1節~4節は、神の祝福に満ちた言葉によってアブラハムは主の栄光の光に照らし出されます。
 けれども、このような祝福に包まれる以前、彼らはどのような歴史を辿ってきたのかについてしっかりと目を向けなければなりません。それが11章27節以降に書かれているのです。ここでは大変興味深いことが記されています。
アブラハムの父は「テラ」という人で、彼にはアブラム、ナホル、ハランという三人の息子達がおりました。しかし28節には、「ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ」とあるように、テラの息子、アブラハムの弟ハランが若くして死んでいるというのです。これはアブラハムの家族を根底から覆すような、苦しく、辛い、衝撃的な出来事であったことと思われます。親が生きている間に子が先に死ぬということは、生きていけないほどの苦しみがテラを襲ったということを意味いたします。またそのときハランには「ロト」という息子がおりましたから、幼い息子にとっても父を早くに亡くすという痛みを負っているわけです。ここにはハランの妻と父テラの妻の名前が出てきません。ですからこの時彼女たちは既に他界していた可能性もあるわけです。そしてアブラハムの妻サライについても書かれていますが、30節「サライは赴任の女で、子供ができなかった」とあります。ですからこれらの事から考えて見ますと、父テラもアブラハムも、テラの妻をなくし、ハランの妻を亡くし、息子であり兄弟であるハランを亡くすという苛酷で不条理な状況に翻弄されたアブラハムの家族の無力感を感じることができます。
更に追い討ちを掛けるように、30節「アブラハムの妻サライは不妊の女で、子供ができなかった」というのです。現代世界では、敢えて子どもを儲けない夫婦もおりますし、子どもがいるかいないかによって、その人の幸せそのものが決定される、という時代ではありません。しかしアブラハムの時代、子どもが生まれない事は、その家が祝福されていないことに直結しておりました。そのような時代でありました。テラの長男であったアブラハムは、当然跡継ぎとなる子どもが欲しかったはずですがそれは適わなかった。つまりアブラハムの家は、過去の悲しみに捕らわれ、将来にすらも希望を見出せず、絶望の中を生きていたと考えることが出来るのです。

 さらに31節には、彼らはウルを出発して、ハランという町まで来るとそこに留まり、32節「テラはハランで死んだ」と書かれております。テラは息子ハランが死んだ後、その心の痛手を負って、生まれ育った、賑やかで、華やかで、富に溢れた大都会を後にして旅立ちました。これまで築いてきた全生活を捨てて出てきたのです。けれども、テラは目的地に着く事が出来なかった。行こうと思えば行けたはずですが、テラはその道の途中、「ハラン」という町、亡くした息子と同じ名前の町を通りかかったのです。もしかするとテラはこの町に愛着と懐かしさを覚えたのかもしれません。そして目的地を忘れ、ハランに留まり続け、そこを離れることが出来ず、死ぬまでハランに住み続けた、と推測することも出来、そう考えるならば何とも悲しく、切ない話ではないかと思うのです。
 父の死によって、残されたアブラハムたちは、希望の欠片も見えない失意のどん底の中に立たされてしまいました。早くに弟を亡くし、自分の家も途絶え、愛する父までも亡くしたのです。その父は過去の悲しみから抜け出すことが出来ず、そこに執着しつつ亡くなっていったのですから、残されたアブラハムたちは、前向きな生き方など到底出来る筈もなく、絶望の底辺に、佇むだけの彼らがいたのです。
  しかし彼は驚くべき神の言葉を耳にするのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように、あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」
 アブラハムにとってこの神の言葉は、あまりにも突拍子もない言葉でした。絶望の中にある彼らに向かって語られる、場違いな「祝福の言葉」。まるで祝福の欠片もない状況の中で、神の希望が約束されたのです。
 もし私たちに同じ事が起こったとしたら、この言葉にどう反応するでしょうか。二つ返事で「はい、その言葉を信じます」と、簡単に信じることが出来るでしょうか。むしろその言葉を否定し、「それは何かの間違いでしょう」「そんな嘘を言って軽々しく慰めないで下さい」。むしろそのように、この言葉を聞くと思うのです。
 それは私たちが、自分の理解に縛られているからではないかと思います。「こんな苦しい状況で、そんな上手い話があるわけが無い」と。私たちは、自分の力や能力の中に、自分自身を押し込めます。だから現実的に考えて、それが可能か、不可能なのかを、自分の理性や理解力だけで捉えてしまうのです。「ああそれは私には無理だ」「私の力では太刀打ち出来ない」。「いくら神様でもそれは無理だ」などと。しかしそれは私たちが被造物の人間でありながら、創造主である神様を制限する事になりましませんでしょうか。
 しかしアブラハムは、神を制限しませんでした。神を自分の理解力の中に閉じ込めなかったのです。たとえそれが人間の目には不安であっても、不可能であると思えても、神を信頼し「わたしが示す地に行きなさい」という言葉に聞き従ったのです。だからこそ彼は絶望の中にあっても、希望に向かって旅立つことが出来たのです。
 間違ってはならない事は、「アブラハムが凄い信仰者なのだ」というのがこの箇所のメッセージではないという事です。つまりこの御言葉は、今ここにいる、私たちへの祝福であるということです。その事を忘れてはなりません。ともすればアブラハムは、諦めて終わる人生を送ることになったかもしれません。あんな辛い事もあった、こんな苦しい事もあった、人生なんてそんなものだ、と、諦めて世を投げ
捨てて生涯を終える事になっていたかもしれないのです。しかし神は、そのような人間の諦めの人生を、それでは終わらせないと、命を呼び覚ましてくださるのです。諦めて、生きる屍のような生きてしまいそうな私たちに、命を与え、祝福に満ちた生涯を与えてくださるのです。私たちは、苦しい時や、人生が分からなくなる時が大変多くありますけれども、そういう時こそ、神様は私たちに言葉を掛け、塵あくたのような私たちを呼び起こしてくださるのであります。そのためにも、何よりも御言葉を信じて聞く、という事が必要であります。折角の招待状が送られてきたのに、それを読まずに破り捨てたのでは、招待された意味がなくなってしまいます。神の言葉を聴いて、信じて、従うのです。それが信仰であります。信仰によってしか、苦難と困難が、希望となる道はあり得ないと思うのです。
 ハランを出発したときアブラムは既に75歳を越えていたと書かれております。言わば盛りを過ぎた年齢であり、現在でも「後期高齢者」という不思議な呼び名が付けられるそのような年齢であります。その中で、「信仰によって、『行き先も知らずに出発した』」(ヘブライ書11章8節)というのです。行き先の見えない不安の中、今後何が起こるか分からない不安な状況の中、彼らは意を決して、信仰という風を背に受けて、人生の中を漕ぎ出していったのです。
 アブラハムの旅の目的は何だったのでしょうか。それはまさしく「信じる」という事ではないでしょうか。ヘブル書11章8節-12節にはそのことが書かれています。
 注目したいのは、「信仰によって」という言葉が重ねられている事です。それは彼の人生が、信仰によってもたらされた事を示しています。8節には、「信仰によって、『行き先も知らずに出発した』」とあります。行き先の見えない旅ほど不安なものはありません。人間という生き物は、目的の無い行動を強いられると、精神が蝕まれていくと言われます。つまり「行き先も知らずに旅立つ」という行動は、その先にある神の約束を信じた行動なのです。だから「信仰によって」と言われるのです。
 9節~10節には「信仰によってアブラハムは、神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」と書かれております。アブラハムは、物質的に経済的に裕福な場所で生きる事ではなく、神の下に堅固な都に生きる事を選びました。この都こそが、真の生きる土台であると確信したのです。普通なら、世界を席巻するほどの大都市ウルに土地を持つ彼らが、裕福な暮らしを捨て、その土地を放棄することなど考えられません。しかし、神が建設した堅固な都、救いの約束に比べると、それは人間的な価値しかもたないのであります。
 11節には「不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました」とあります。75歳のアブラハムと65歳のサラの間には、神の約束があったにもかかわらず、その後25年間子が出来ませんでした。しかし100歳と90歳になったある日、殆んどあり得ない状態で、サラは子を産んだのです。その理由を聖書は続けてこう伝えます。「約束なさった方は、真実な方であると、信じていたからです」と。
 私たちの常識では90歳の女性が子を産むなど信じる事は出来ません。生物学的にもそのような前例がありません。しかしそれがなんでしょうか。私たちの常識とは何なのか。人間の知識・学問・科学などといったものが、一体なんだろうか。どうして私たちはそんな事に囚われ、そんな事のために、神を信じることを妨げられているのだろうか。聖書はそのように私たちに迫るのです。人間の常識と神の真実、正しいのはどちらなのか。どちらが信じるに価するのか。これらの問いがどれだけ愚かな問いであるかを、聖書は告げるのです。90歳のサラは、子を産みます。それが神の真実だからです。
 彼らは「信仰によって」深い苦しみから立ち上がり、「信仰によって」行き先を知らずに出発し、「信仰によって」約束が現実のものとなることを知るのです。彼の旅は、信じることを目的とした、信仰による、神の約束に向かう希望への旅であったということです。
 私たちは今の世の中を見渡すとき、何と信じる事の少ない世であろうかと呟くことの多い者たちです。日本という国を疑い、為政者たちを疑い、人生の行き先を疑わずにはおれない世の中です。嘘と、偽りと、疑念に満ちた世の中であると言えるでしょう。けれども、だからこそこのような時代で、このような私たちのために、祝福の言葉を与え、それを現実ものとしてくださる神を信じたいのです。この世が例え偽りと絶望に満ちていようとも、神の真実と希望は永遠に尽きる事がないからです。だからこそ信じようではありませんか。私たちの目を神様に向けて「希望に向かって」歩むこと。これが今日の箇所に与えられた、私たちへのメッセージであります

敗戦記念日集会


<敗戦記念日集会のご案内>  2010年8月15日(日)
 午前10時30分~ 礼拝「教会の宣教的使命」   
 午後1時~   講演「世界の平和を願って」  
説教・講演 朴寿吉牧師(在日大韓基督教会牧師) 
<朴寿吉牧師プロフィール>
1956年韓国・ソウル生まれ。
韓国・延世大学校卒業(神学士)、関西学院大学大学院修了(神学修士)、アジア神学大学院日本校修了(牧会学博士)、米国Piedmonto Univ(神学博士)在日大韓基督教会の大阪教会、布施教会、京都教会での牧会を
経て、2001年10月の総会で在日大韓基督教会総幹事として選任される。現在、日本キリスト教教育学会会員、日本キリスト教会神学校講師、在日大韓基督教会総会神学校教授。
 2010年8月、韓国が日本の植民地として強制併合になってから100年を数え、また今年は太平洋戦争で日本が敗戦して65周年の年でもある。戦後の日本は平和憲法のもとで平和的に過ごし、経済的な発展を遂げてきたが、人間の社会が進歩して来たのかと問われたら、答えに迷う人がいるかもしれない。そんな中、日本の教会は何をして来たのか?その問いかけに改めて誠実に立ちたいと思っています。     
     

   

7月12日~17日の集会予定

◇杉戸集会 (田端宅)14日(水) 午後 1:30~3:00

◇聖書の学びと祈り  14日(水) 午後 7:30~  
  
    マルコ福音書8章1節-13節    奨励:岡 野 庸 子     
    
 
◇聖書の学びと祈り   15日(木) 午前10:00~
   
    創世記 11章27節~12章9節  奨励:三 輪 地 塩

7月18日の礼拝 【伝道礼拝】

説教題: 「アナニアとサフィラ」 

聖 書: 使徒言行録4章33節~5章11節    

説 教: 三 輪 地 塩
  
讃美歌: 546、11、392、338、544  

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記11章1節-26節

創世記11章1節-26節 2010年7月8日
 バベルの塔の物語は、原初史の最後を飾るに相応しい大変有名な物語です。この話は、バベルという名前から想像されるように、古代バビロニアのジッグラドという巨大建造物がモチーフとなっていることは明白です。古代の都市文化の象徴であり、豊かさと権力のシンボルであるこの塔が、人間の建造物として如何にして建てられ、神によってどう崩壊を迎えたのか。そのようにメッセージは明確であり、大変分り易いように思われます。’「天にも届く建造物を作り、神になろうとした。だから言葉を混乱させ、散らされるという裁きを受けた。人間は神のようになろうとしてはいけない」‘。このように読まれることが多かったバベルの物語ですが、今日の私たちがこれをどう読むのか。注意深くこの箇所を紐解いてみたいと思います。
 3節では彼らが’「れんが」‘を使っています。またしっくいの代わりに’「アスファルト」‘が用いられています。これは当時の最先端の科学技術であると言ってよいと思います。彼らはこれ以上ない建築の粋を集めて、最先端の建造物を造ろうとしているのです。彼らは’「さあ天まで届く塔のある町を立て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」‘これがバベル建造の目的でした。
 因みに、バベルの塔のモチーフになっているジッグラドですが、ウルクの遺跡から出土した楔形文字の粘土板には、紀元前300年ごろのものですけれども、このような寸法であったと書かれているようです。
1階:90×90×33(m) 2階:78×78×17 3階:60×60×6 4階:51×51×6
5階:42×42×6     6階:33×33×6  7階:24×24×15
 この7階分の高さを合計すると、90メートルになり、1階部分の長さと同じ高さになることが分かります。大阪の通天閣が100メートル、函館の五稜郭タワーが107メートルですから、紀元前の話としては相当なものであることが分かると思います。
 このようなバベルの塔の物語ですけれども、冒頭でも申し上げたように、人間が全地に散らされたという事が裁きとして結論付けられるのが、これまでの受け取り方であったように思います。しかしそのことについて、今日の箇所の核心部分に迫ってみたいと思います。
 まず’「散らす」‘という言葉に注目してみたいのですが、この言葉は本来バビロン捕囚の文脈で用いられることが多く、(エゼキエル書11:17、20:34、20:41、28:25)、それゆえに否定的な用語として受け取られています。しかし今日の箇所の特に原初史の文脈で考えるならば一概にそうとは言えないことが分かるのです。特に10章32節には’「地上の諸民族は洪水ののち、彼らから分かれ出た」‘とあるように、’「分かれ出ること」‘が主によって祝福され、是認され、意図されていることが分かります。この’「分かれ出る」‘の言葉も’「散らす」‘と同じ語幹に由来する言葉です。また10章18節では’「カナン人の諸氏族が広がった」‘とも書かれておりまして、この文脈でも、’「広がる」‘こと自体は決して否定的に受け取られておらず、まして主の裁きが執行される内容にもなっておりません。
 この観点から見ますと、11章4節に記されている’「そして、全地に散らされることのないようにしよう」‘と話し合っている人間たちの言葉は、散らされることを恐れ、それを阻止しようという意図が働いていることが分かる。つまり主が’「散らされること」‘を良しとしている文脈の中でそれを阻止しようとしている人間がいるということですから、この4節の言葉は神への反逆の言葉と捉えることが出来るわけです。
 この流れで考えるならば、バベルの塔建設が罪である理由は、’「人間が一致するという罪」‘を犯しているからであると言えるでしょう。私たちは教会の一致、とか、信仰の一致などという言葉を良く聞きますから、「一致することが善である」と勘違いしがちであります。しかし「一致」という事柄それ自体は、極めてニュートラルな行為です。善を行うための一致もありますが、「同質性の固執する一致」であるとか「利己的な自己保全のための一致」であるならば、それは神の意に反した一致であると言えるでしょう。つまりこの物語が言わんとしていることは、神に不従順に結束したから、その裁きとして拡散される、という単純な構図ではなく、地の面に散らばっていくという「祝福の拡散」がここで言われているのです。
 バベルの塔の物語は、民の散らばりによって締め括られています。これまで創世記1章から失楽園、カインとアベル、ノアなどの様々な物語を読んでまいりましたが、これまで神は、裁きではなく最終的には救いと恵みの神であることが伝えられてきました。皮の衣を着せたこと、復讐されないように徴をつけたこと、箱舟で救い出したこと、など、その全ての締め括りが祝福だったわけです。しかしこのバベルの物語は、一見すると裁きで終わっているように見えてしまいます。神はとうとう諦めたのか。人間を救おうとする意思を失ったのか。そのように捉えることも出来るわけです。
 フォン・ラートというドイツの偉大な旧約学者は「旧約聖書神学Ⅰ」の中で「バベルの塔は恵みなしに終わるのである」(220頁)と結論付けているということです。彼はこの物語を、人間のエスカレートする罪の頂点と看做しているのでしょう。しかしラートは単に神が人類を見放したということではなく、12章からのアブラハム物語の「祝福」の言葉の中に、神の祝福を見ています。
 しかしバベルの塔が祝福なしに終わっている、という結論付けは、聊か早計であろうと思います。本当にこの物語は祝福なしに裁きの物語なのだろうかと。ですから、8節の「主は彼らをそこから全地に散らされたので」の言葉を、裁きではなく、「主の祝福として散らされる」と受け取ると、この物語の恵みが深くされると思うのです。
 つまりここで彼らは、4節にあるとおり、一つであること、同じであること、お互いの違いを認めないことの中に生きようとしていたのです。しかし私たち人間がお互いの違いを認めないことを主が本当に求めているのか、という事が問題となるのです。お互いに散らばっていくことは、バベルの建設工事を頓挫させるという意味で、裁きであったかもしれません。けれども同時に、人間はお互いに違いを見つけ、それを認め合い、多種多様な生き方と、文化を承認すると
いう新たな生命を、神は人間にお与えになったのではないでしょうか。つまり違いがあってよい、という祝福がここに示されているのです。むしろ一つであることの方が問題であると。色んな言語があってよい。色んな文化や民族があってよい。そういうお互いの違いを大切にしていき、多様性と相対性を認め合って生き、共存することこそ」が、神の祝福なのである、という事なのではないでしょうか。
 人間の長い歴史を紐解くと、多様性を蔑ろにし、否定し続けて人間は罪を犯し続けてきました。様々な立場や意見を、隠し、殺し、飲み込むことによって、人間は抑圧されてきたのです。大日本帝国も、アウシュビッツも、画一させられた言論統一と検閲の中で、多様性、自由発言の統制の中で、罪を犯してきたのです。我々人間が全く同じ考え、同じ言葉という事自体が異様なことなのです。世界を英語で統一しようとする大航海時代のイギリスも、大東亜共栄圏の旗印の下でなされた日本語教育も、アルザス・ロレーヌも、共産主義も、その全てが人間の罪の中にあると言ってよいと思うのです。みんな揃って君が代を歌い、日の丸を有難がることが、神の似姿としての人間の尊厳と生命を表しているのだろうか。そのことが問われるのであります。
 もちろん、一致することは決して「悪いこと」ではありません。しかし何のために一致するのかが問題なのです。「天まで届き、神に近づくため、有名になるために一致する」のか。「主のために一致する」のか。そのことが問われているのです。その意味では、「バーラル」と言われている、あえてなされている混乱それ自体も、神の祝福であると言えるのかもしれません。
 この箇所で私たちは、神の問いかけを聞きます。主と我々の関係は正確に保たれているのか。主の祝福を聞き取ることが出来ているのか。一見すると祝福ではない事柄の中に、主の真の祝福を見出す信仰があるのか。そのことが今、この21世紀の私たち信仰者に問われていることなのだと思うのです。忘れてはならないのは、私たちは如何なるときも主の祝福の中で生きている、ということです。ここから離れることなく、歩む道を示されたいと思うものであります。
 参考資料:J.C.L.ギブソン著「創世記Ⅰ」DSBシリーズ1 新教出版
      W.ブルックマン著「創世記」(現代聖書注解)教団出版   
      高柳富夫著   「今、聖書を読む」    梨の木舎