一つになるための最後の祈り

2010.2.28  ヨハネ 17:20-26  河野美文神学生

 イエス様は目を天に向けられ、祈り始められます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてくださいました」と。

 受難の時は、イエス様の肉体が死を迎えるときですが、ヨハネの福音書では、初めから、「栄光の時」と言われています。この「塵から造られた儚い血肉の体」が死を迎え、全人類の罪の為の、身代わりの死が成し遂げられました。その結果、私達は罪に勝つことが出来ます。永遠の命に連なる復活の命に与ることが出来るのです。

 イエス様は、更に今キリストを信じる者達に、彼らの言葉によって信じる新たな者達が迎え入れられることを予告されます。それらの人々を含めた「すべての人を一つにしてください」と。それは、この世を見捨ててのことではありません。この世から、イエス様に属する者が起こされるという予告であります。

 そして、一つにされることは、まず御父と御子の愛による結びつきを基礎として、その愛の中にすべての人が入ることなのだと説明し、求められています。「そうすれば、世は、あなたがわたしを御遣わしになったことを、信じるようになる」と。ひたすら世から守られることを祈っておられたのに、ここからは一転して、世に対する働きかけを述べられます。

 教会の一致は、時を経るに連れて破壊される恐れがあります。しかし、信者の全てが、神とイエス・キリストから来る交わりの中に立つならば、教会の存在は、世に対する強い伝道になるということであります。

3月21日の礼拝

10:30~ 伝道礼拝
説教「一粒の麦」
ヨハネ福音書 12:20-26  中家 誠牧師
祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。
 
【連絡先】
〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2
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キリストにある人は、常に新しい

2010.1.3  Ⅱコリント 5:16-21  牧師 中家 誠

 新たな一年を迎えるに当り、み言葉の光に導かれつつ歩み行く者でありたい。

 そこで、「キリストにある人は、なぜに常に新しい」のであろうか。それは、人間は常に古び衰えるのだが、神は無限の方であり、常に新しいからである。イエス・キリストの背後には、この神がおられる。「キリストにある」とは、このキリストと結ばれて生きることである。

 それはあたかも、母の中に宿る胎児のごとく、へその緒を通じて、常に新鮮で栄養のある血液が送られてくる。キリストと結ばれる時、わたしたちは神の霊をいただくことができるのである。それは「真理の霊」、また「助け主」であって、わたしたちに必要な神の助け、また神の思いを、日々新たに送ってくださるのである。

 この神の霊、キリストの霊はまた、神からの「和解の霊」でもあって、これを受ける人は神と和解し(神を愛し、神から愛されて)、更に人々とも和解することができる。なぜなら、キリストはすべての者の「和解の源」となるために、十字架につかれたのである。

神の御子が人となって

2009.12.20 ヨハネ福音書 1:14-18  牧師 中家 誠

 クリスマスは、神の独り子が人となってこの世に来られた出来事である。この事を心から喜び祝いたい。

 ①「言(神)は肉となって、わたしたちの間に宿られた(天幕を張った)」(14節)。昔、イスラエルの民は羊を飼う遊牧民として天幕生活をしており、その中心に、「臨在の幕屋」と呼ばれるものがあった(出エジプト記40:34-35)。そこにおいて民は神を礼拝し、荒野(シナイ半島)の旅の間、常に神は共におられた。今や、神は人となって、わたしたちの間に住みたもう。これが主なるキリストである。

 ②「わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。真理は常に正しいものでなければならない。それはどんな嵐の日にも、北を指し続ける羅針盤のように、わたしたちの行く手を照らすのである。わたしたちの地上の旅路の間、それは絶えることがない。

 ③「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)。御子は、父なる神と最も親しい間柄の中におられた方である。そこには、この世にないほどの親密な交わりがある。その方が人となって来られたということは、父を示してくださると共に、その親しい交わりの中に、わたしたちを招き入れてくださるということでなくて何であろう! これこそが「永遠の生命」なのである。

慰め主(ぬし)の到来

2009.11.29  イザヤ書 40:1-11  牧師 中家 誠

 今のこの時代、人の心は破れ、傷ついており、真の癒しを必要としている。聖書は、その真の癒し、慰めについて告げている。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と(イザヤ40:1)。

 旧約のイスラエルの民は、紀元前6世紀に、バビロン捕囚という大きな苦難(どん底)に陥った。その民に向けて神は、「この民を慰めよ」と言われる。創造者にして歴史を支配される神の絶対的な御力と、同時に、その深い慈しみの御手をもって。「主は羊飼いとして群を養い、……小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11)。

 神は真の裁き主である。と同時に、否、それゆえにこそ、真の慰め主でもあられる。この神が、ご自身の限りない慈しみの御手をもって、われら人類を慰め癒してくださろうとするのが、御子イエス・キリストの到来(アドベント、クリスマス)である。この御方の中にこそ、汲んでも尽きない神の恵みの泉が宿されているのである。

3月8~13日の集会

◎祈祷題 「信仰の継承のため」

○聖書の学びと祈り 10日(水) 19:30 ローマ書 8:18-30 関口安義

○聖書の学びと祈り 11日(木) 10:00 ローマ書 14:13-23 矢部順子

○トレインキッズ 13日(土) 11:00~13:30 「やきそば作り」