7月4日~9日までの集会

◇聖書の学びと祈り      6日(水) 午後 7:30
 Ⅰコリント11章2節~16節     

◇聖書の学びと祈り      7日(木) 午前 10:00
  創世記46章           

◇トレイン・キッズ      9日(土) 午前 11:00

使徒言行録22章22節-23章11節 『勇気を出せ。力強く証しせよ』

使徒言行録22章22節-23章11節 2011年7月2日 『勇気を出せ。力強く証しせよ』
 
 先週の木曜日祈祷会の中で、「ユダは赦されたのか」という質問がありました。皆さんはどうお思いでしょうか。イエス・キリストを銀貨30枚で売り払ったあの側近であった弟子のユダが、救いに預かったのか否か。これは大変興味深い質問でありました。

現在木曜祈祷会では、創世記を1章から読み進めておりまして、先週45章まで進みました。この45章という箇所は大変にドラマチックでして、いわば創世記の一つのクライマックスであると言えるわけです。創世記37章からは、ヨセフ物語という12人の兄弟たちの物語が始まります。ヨセフの兄たちはヨセフを嫌って殺そうとするのです。しかし一応兄弟なのだから、ということで生かしておくことにしよう、しかしエジプトの奴隷商人に売ってしまえ、ということでヨセフはエジプトのファラオの宮廷に売られて行ってしまうのです。しかしエジプトに行ったヨセフは、そこでありもしない疑いをかけられて、奴隷の身分よりさらに条件の悪い、囚人になってしまいます。しかし彼は神様の導きによって、その場所から救い出され、最後にはとうとうエジプトの実権を握るまでに重用されていくのです。あるとき大飢饉が訪れたとき、カナンから自分を売った兄弟たちが食料を買いにエジプトにやって来ました。しかしヨセフは、自分を一時は殺そうとまでした兄弟たちを赦し、和解するのであります。この赦しの場面こそが45章でありました。

祈祷会の中でたびたび紹介するのですが、小泉達人さんという牧師が、創世記考講解説教という本を書いていて、その中に次のような1節がありました。「表面上は人間の仕業、罪の行い、卑劣な出来事であっても、その背景には神の御手のあることに気付き、そこへの感謝を見出すことこそが、信仰の本領であると思うのです。ヨセフの生涯は、数奇な運命に翻弄された人生としか言えません。しかし信仰の目的からは、一切は神の着々としたご計画の中にあったのだということです。この時、諦めの運命は神の摂理として受け取られます。我々の運命を摂理に変えるもの、それが福音であり、その福音を信ずるのが信仰であります。運命を摂理と受け取ったとき、私たちの新しい人生が始まります(小泉前掲書より)」
 このように言われます。

「表面上は人間の仕業、罪の行い、卑劣な出来事であっても、その背景には神の御手のあることに気付き、そこへの感謝を見出すことこそが、信仰の本領である」とは本当にその通りだと思うわけです。
 卑劣な行為は、私たちの生活の中にたくさん存在しますし、その反映として聖書の中にもたくさん出てまいります。卑劣な行為。今日の箇所にもそのことが示されております。先週の箇所でパウロが民衆の前で弁明をしました。自分の生い立ちから、信仰の歩み、そして自分が如何にキリストを迫害してきたか。しかし同時に如何にキリストに捕えられてきたのかを克明に語るのです。しかしそれを聞いたユダヤ人たちは怒り出します。今日の箇所はその尋常ではない怒りの中からスタートいたします。
「パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は地上から除いてしまえ。生かしてはおけない』」これが民衆の言葉でありました。この怒りと憎しみの中にある人間たちの前でキリストを弁明するパウロについて書かれているのが、今日の一連の箇所の内容であります。
 
 ここには弁明の場に立つパウロと、怒り狂うユダヤ人たち。そして第三者としてそれをみているローマの兵隊たちの、三つの立場の者がいるわけです。ここで面白いのは、ユダヤ人たちの論理と、ローマ人たちの論理の決定的な違いがみられることです。まずユダヤ人たちは、宗教的な論理の中で、特にユダヤ教を冒涜されたと感じていたようです。しかしローマ人たちは非常に冷静でした。ネガティブな言い方をすると彼らは無関心だったのです。関心があるとすれば、今から法廷で裁こうとしている人物がローマの市民権を持っているか否かという、法令上の問題であったのです。彼らはパウロがローマ市民権を持っていることを知って「恐ろしくなった」とあります。つまり彼らの恐れは、目の前の人間たちが何をしようとしているのか否かではなく、国家権力から照らしてその人がどういう人物であるのかに関心を持っているということであります。

 ローマ兵たちは、パウロがなぜ訴えられているのかわからず、確かなことをしるために、協議することにします。そして23章に入ります。パウロは最高法院の議員たちを見つめて言いました。見つめるということは、パウロが恐れなく相手を直視している姿を示します。そして「兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」という自らの身の潔白を主張し、自分がキリストを伝えることについて、何のやましいことはない、と弁明いたします。しかし大祭司アナニアは、彼の口を打つように部下に命じます。これはアナニアが、事実に即して審議を進めようとしているのではなく、まずパウロの罪ありき、というパウロの有罪を頭ごなしに決めつけて制裁を加えたのであります。しかしこれは法廷では明らかな違法行為でありましたので、彼は「白く塗った壁よ。神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従って私を裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、私を打てと命令するのですか」といいます。この「白く塗った壁」というのは、マタイ23章27節でイエス様が「律法学者・ファリサイ派」に対して、「」白く塗った壁」と語ったのを連想させます。つまり「外側は美しく塗られているけれども、その内実は人を裁こうとし、隔離しようとする偽りの壁」という意味でありましょう。そして周囲の者が「無礼なことを言うな」とたしなめたところ、パウロは「律法に、網の指導者を悪く言うな」と書いているのを忘れていた、すまない すまない」。というようなニュアンスで受け答えます。しかしこの言葉は、先ほどお読みしましたように、出エジプト記22章27節にある、神をののしってはならないという文脈の中で、民の代表者を呪ってはならないと言われています。つまり民の代表者が神の意志を反映する務めを担っているということを示した律法の言葉として理解することができるわけです。

 ですからパウロがここで言おうとしているのは、「このような者が民の代表であるのか」という皮肉にも受け取れる言葉であると言えるわけ
です。あなたたちの民の代表者は、白く塗られた壁であると。
 この彼らに対して、パウロは信仰の本質的なことを提示してユダヤ人たちを論争にさせます。それは復活があるかないかということです。サドカイ派は復活を信じず、ファリサイ派はこれを認めているという信仰上の問題を提示することによってユダヤ人の側にも論争を生じさせたのです。この両者は2世紀の長きに亘って対立し続けてきた間柄でありましたが、パウロが登場することによってユダヤ教が根底から揺らいでいるという危機感に突き動かされてこの両者はパウロを葬り去ろうとして集まっていたのです。しかし今やパウロによってこの古くからの論争を再び蒸し返されることによって、会議が混乱してしまうのです。その議論が白熱した中であるファリサイ人が立ち上がり「この人にはなんの悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろう」と言ってファリサイ派には理解可能なことであると述べたのです。そしてこのままの混乱が続くとパウロの身が危ないと察したローマ兵たちは、彼を兵営に連れて行き何とか事なきを得たのであります。

 しかしその夜、主はパウロの傍に立ち、こう言われます。そしてこの言葉が大変印象的であります。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。この神様の激励の言葉が力を失いかけているパウロに与えられるのであります。この言葉は、彼の前途に希望の光が消えたかに見える絶望的事態の只中に神の真のご計画が表されるという絶対的な言葉としての神の激励であります。パウロには多くの仲間がおりましたが、しかし彼を疎ましく思うものもたくさんおりました。アンティオキア教会の中にも、他のパウロの携わっていた教会にも、敵対者がたくさんいたのです。そして今やエルサレムの中ではパウロをめぐって最高法院は大混乱し、この男を殺し取り除いてしまえ、という恐ろしい言葉が飛び交う状態にあるのです。

 しかしこのような状況の中にあってさえも、神は「勇気を出せ」とおっしゃいます。この言葉を私たちはどう聞くでしょうか。まったく勇気の出ない状況に立たされたとき、私たちはどう思うでしょう。「勇気を出せ」などと言われても、勇気が出ないのだからだそうにも出せない。そんな難しい言葉を軽々しく語ってほしくない、と思うでしょう。それはなぜならば、人間の言葉としての「勇気を出しなさい」という言葉は、勇気の根源をその人本人が持っていないからであります。勇気を与えようと言って、自分が与えらえる勇気は高々知れております。もちろんその人に寄り添うこともできますし、その人の悲しみに触れることもできます。しかし人間の「勇気を出して」の言葉が軽々しく聞こえてしまうのは、それに責任が伴わないからでありましょう。勇気を出す力の根源がない。無力と罪に満ちた我々人間の側に、それがないのです。

 しかし神は、このパウロが、勇気のすべてが、根っこから引き抜かれたような状況にあって、勇気を出せと語るのです。そして語り得るであります。それは神ご自身の中に、勇気を出せの根源があり、私たちに力を与えるものを持っているからであります。
 「勇気を出しなさい。力強く証しせよ」。この言葉は裏を返せば、勇気はあなたが持たなくても持たせてくれるということと、その勇気を持てる見える証拠として、あなたが力づけられるだけではないということを含むのです。

 どう言うことか。それは神がこのパウロを殺そうと狙い定めている、あの敵対者たちにさえも、神の赦しの力が与えらえているということです。パウロは敵対する者たちとの戦いにばかり目を向けざるを得ない状況でした。自分の命が助かるか助からないか。自分の伝道者としての道が絶たれるか絶たれないか。それだけにとらわれていたのです。しかし神の愛はそうではありません。つまり神の愛は、パウロを殺そうとしているサドカイ派とファリサイ派にも注がれ、このローマ兵たちにも注がれ、自分に敵対する全ての者の罪を赦してくださる方が神なのであります。それがパウロの伝道し述べ伝えている神の言葉の事実であるのです。だからこそ彼は自分の走ってきたことが無駄ではない、神の言葉にはすべての信頼があると心底感じたのでしょう。それが彼の勇気となり、励ましとなったのです。

 ですから冒頭で申し上げました。ユダは赦されたのか。この答えは「然り」であるのです。私たちはこの確信を持ってよいのです。この確信がなければ、敵対するものをどうして愛することができましょう。そして敵対するものと敵対する自分がどうして赦されることなどありえましょう。それが神の愛の計画なのであります。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年7月2日)




 

全国連合婦人会修養会




◇6月21日(火)~22日(水)北海道札幌北一条教会において
 全国連合婦人会修養会が行われました。
 講師:八田牧人(札幌発寒教会牧師)
 主題:「真理はあなたたちを自由にする」
 
   参加者:73 教会・伝道所  合計363名(浦和18名)でした。
   
 参加者全員の写真です。
   

講演会のお知らせ

◇原発事故に関する講演会(入場無料)
 
 日時:7月8日(金)18時~
 場所:明治学院大学 白金校舎 1254教室
 主題:「被造物のうめきが聞こえる
          ― 聖書から見た福島原発事故 ―」
 講師:上山修平氏(日本キリスト教会 横浜海岸教会 牧師)
            

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記44章1節-34節 2011年6月23日

 創世記44章1節-34節 2011年6月23日
 43章の第2回目のエジプト行きの時、食料調達という責任を果たした兄弟たちであった。
 ヨセフはベニヤミンと会うことになった。彼は「奥の部屋で泣いた」(43:30)のであった。その後兄弟たちはヨセフの法外なもてなしを受け、ベニヤミンには5倍もの料理が用意されていたと書かれており、ヨセフの喜びが表わされているように描かれている。しかし兄弟たちは気付かなかった。
 44章では、兄弟たちが帰ることになるが、彼らはその成果を喜んでいたに違いない。ベニヤミンが取られることもなく、シメオンを奪還し、食料を調達し、もてなしまで受けた。以前の訪問よりはるかに気分良く家路に向かっていたと思う。しかしヨセフはさらに仕掛けを打つ。
 なぜこのような計略にでたのだろうか。彼は何をしようとしていたのだろうか。このような疑問が出てくる。これは単なる濡れ衣であり、兄弟たちにとっては迷惑な話である。しかしある注解書にはこのようにある。「ヨセフはこのことを通して、もっと大きな愛を兄弟たちと故郷に残っている父ヤコブに与えようとしているのだ」と。さらにこの試みは、兄弟たちの悔い改めと愛を確かめたい、(これまで何度も確かめているのであるが)、のであろう。
※5節には「占い用の杯」が出てくるが、その方法は杯に水を入れ油をたらして文様を見たり、金、銀、 宝石を杯に投げ入れて沈む様子を観察して占ったと言われる。また一方でこの杯はヨセフが日常使って いたものであることも書かれている。占いはイスラエルで禁じられていたので、兄弟たちを欺くために エジプト風をことさら装ったと考えられる。とあるがそうだろうか。疑問である。
 7節以下では兄弟たちは銀の食器など盗むはずがないと言う。しかしそれは見つかってしまった。11節で彼らは袋の中を確認するのだが、ベニヤミンの袋の中にその食器が見つかってしまった。「彼らは衣を引き裂いて・・」とあるように、「何という事だ!」という悲しみの表現であろう。この辺りが非常にドラマチックに描かれている。彼らの悲嘆の姿が映し出されている。
 この時ユダは16節でこう言っている。「ご主君に何と申し開き出来ましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証を立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです」。ここでユダは「神が僕どもの罪を暴かれた」と言っているが、これは何故であろうか。これはヨセフが仕組んだものであり、彼らはその計略にはめられたのである。林嗣夫は次のように言う。「銀の杯は身に覚えのないことですが、だからと言って、自分たちは罪のない聖なる者だとは言えません。このことを機会に、ユダは自分たちの罪を知らされ、それを告白しました。」続けてこう言います。「我々はよく、こんなに真面目にやっているのにとか、不満を漏らすことがあります。ユダは、かつてヨセフを売り渡した後、悔い改めて生活していたのではないでしょうか。しかし災難が降りかかってきました。彼はこのとき、こんなに真面目になったのにと愚痴を言うようなことはしませんでした。今度のことでエジプトの首相に対して『身の潔白』を表わすことは難しい。まして神の前では、どうして罪人でないと言えるだろうか」と。
 ヨセフがエジプトに売られて来たのが17歳。首相になったのが13年後の30歳。豊作が7年続いたので7年足して37歳。さらに凶作が何年続いているのでそれをプラスすると、ヨセフがいなくなってから20年以上も経っている。法律的には時効かもしれない過去の罪であるが、それが無くなったとは考えていないのである。むしろユダは、ここまで神に見過ごされてきたと思っていたが、しかし神の前では逃げも隠れも出来ない、という事を感じたのではないだろうか。
 旧約聖書にヨナの物語がある。彼はニネべに行きなさい、という神の言葉を聞き、そんなことしたくないと逃げていく。しかも彼が逃げたのはタルシシュ行き、つまり正反対の東に逃げていったのである。船の中では彼は神から逃げたと思っていただろう。しかし神の前では逃げも隠れも出来ないのであった。どのような形であれ(あのときは籤を引くという形で)過去の罪が暴かれ、それが無くなることはないのであった。
 18節から「ユダの嘆願」が始まる。これは内容的には「ユダの罪の告白」であると書いてある注解書もあるが、これは嘆願である。(内容的に罪に触れてもいるが)
 彼は極めて具体的にこれまでの経緯を語る。そしてユダは自分がベニヤミンの身代わりになろうとする。ベニヤミンが罪を犯すならば自分がそれを負うという。ベニヤミンが奴隷になるなら自分が身代わりになるという。これがユダの表明した態度であった。
 ここでユダは兄弟たちの代表者として出てきていることに注目したい。つまり彼の言葉は兄弟全員の言葉なのだ。彼の表明は、兄弟全員の表明なのである。従って彼らは、ベニヤミンを何としてでも守る、と固く誓っているのである。ヨセフはこれを聞いた。ベニヤミンは言わばヨセフの分身でもある。もう一つの自分の姿であり、置いてきたカナンでの生活である。つまりベニヤミンを守ることは、自分への態度でもある。そう感じたのではないだろうか。
 彼らは全員が共謀してヨセフを陥れた。ヨセフは売られていった。父は野獣にかみ殺されたと嘆いた。兄弟はその偽装工作をした。それが20年前の彼らの姿であった。しかし今や、状況は変わる。彼らはベニヤミンを命を張って守ろうとしている。それは言うなれば、命を張って自分を守ろうとしている兄たちの姿をここに重ね合わせたのではないだろうか。ヨセフはこの一部始終を自らの目で確認し、彼等の心の奥底にある罪の意識を知り、神の前では隠れることが出来ないことの告白を聞き、ヨセフは確信を得たのであろう。
 しかしここでベニヤミンの罪の身代わりになろうとしているユダであるが、けれども人間の罪を本当の意味で身代わりになれるのはイエス・キリストだけである。ユダがこのイエス・キリストの系図の中に連なっていることの意味をここに見出すものである。
 (日本キリスト教会浦和教会 聖書の学びと祈りの会 奨励:三輪地塩)

6月27日~7月2日の集会

 ◇浦和教職者会         6月27日(月) 10時00分~13時00分
                             (於:バプテスト 浦和キリスト教会)

 ◇東京中会教職者会       6月27日(14時)~28日(12時) 
                             (於:相模原 清流の里)

 ◇聖書の学びと祈りの会     6月29日(水) 19時30分~21時00分(1階 集会室)

 ◇聖書の学びと祈りの会     6月30日(木) 10時00分~11時15分(1階 集会室)

 ◇慶弔委員会          7月 2日(土) 10時00分~12時00分