生きた水が川となって

2009.6.14  ヨハネ 7:32-39  牧師 中家 誠

 ユダヤでの仮庵の祭は、秋(9~10月頃)に行われる収穫感謝祭と出エジプトの記念日を兼ねた祭りである。その祭りの最も盛大に祝われる日に、主イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。

 水は、パレスチナや荒野で生活する人々にとって、真に切実なものである。そこには、出エジプトの際の苦しみが反映している。

 また、わたしたち人間には、常に「渇き」というものがある。今日、経済不況のゆえに、多くの人々が生活上の苦しみを味わっている。そのような生活苦からくる「渇き」。更に、もっと奥深い人間の内奥から来る「心の渇き」がある。しかしこの後者の渇きは、神の御言葉(神のご人格)に触れなければ、知ることのできない渇きであり、この「永遠のいのちの水」に対する渇きこそ、キリストはうながしておられるものである。

 神の御子キリストは、人となってこの世に来られ、父なる神のもとから流れ来る永遠のいのちの水を、わたしたちに注ぐために来られた。このいのちに至らぬとき、人は不完全燃焼となり、欲求不満や時には犯罪となって現われ出るのである。

 キリストは十字架の死をもって、わたしたちの罪を背負い、復活によって永遠のいのちに至る道を開いてくださった。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」。

 この尽きない「いのちの水」に与かるよう、御言葉を求め続けて生きたいものである。

聖霊の働き――祈り・宣教・和解

2009.5.31  使徒言行録 2:1-13  牧師 中家 誠

 上記の聖書箇所を通して、3つのことを示される。それは祈りと宣教と和解である。

 ①祈りこそ、教会が主イエス・キリストにあって一つとなれる重要な鍵である。祈りは、神からの霊(いのちの水)を受ける「水道」にたとえられる。キリストという、神とわたしたちをつなぐ「水道」を通して、神の霊が注がれてくるのである。

 ②その霊は、宣教の霊でもある。弟子たちは神の霊を受けた時、神の大きな救いの業をほめたたえて語り出す人々となって行った。

 今年は、日本プロテスタント宣教150年の年と言われる。それで、プロテスタント発祥の地である横浜において、2回の講演会があり、宣教師たちの努力によって、今日のわたしたちの信仰があることを再び学んだ。わたしたちも、次の世代に伝える者とならねばならない。

 ③和解。キリストは神と人との和解者(仲保者)であり、この和解こそが人と人との和解の源なのである。神の霊、御子の霊が人の中に注がれる時、その人は神の子たちとされ、互いに兄弟姉妹とされるのである。

 今日ほど、神と人、人と人とが和解を必要としている時はない。和解の霊が豊かに注がれるよう、祈り求めたい。

神の約束に生きる

2009.5.24  創世記 15:1-19  牧師 中家 誠

 信仰とは、ヘブライ書11:1に記されているように、①神が大いなる方であり、はるかな見通しを持つお方であることへの信頼と、②その変わることのない真実さへの信頼に生きることである。3800年も昔のアブラハムの信仰は、そのことをわたしたちに示してくれる。

 信仰の祖となったアブラハムは、年老いるまで、ひとりの子さえ得ていなかった。しかし彼は、すべてを見通したもう神を信じ、また、神が約束されたことを必ず果される方であることを、信じ受け入れたのである。その故に多くの信じる者たちの父祖となった。

 神はその時彼に、約束の確かさを示すために、当時のしきたりに従い、「契約」(2つに切り裂いた動物の間を行きめぐる儀式)を行いたもうた。そして今度は、人類の歴史の中心部において、御子キリストを十字架上に切り裂いて、わたしたち人間の不真実を負いつつ、ご自身の真実を示したもう。これを「新しい契約」(新約)という。

 わたしたちは、この歴史を貫く神の契約に与かり、これを信じて生きる者たちの群なのである。

永遠の生命の御約束

2009.4.12  ローマ 5:1-11  牧師 中家 誠

 わたしたちキリスト教会は、3つの重要な祝祭日をもっている。第1は、キリスト降誕日クリスマスである。これは冬至祭とも関わりをもつと言われる。陽が短くなり、春へと移る時。第2は、キリストの復活日イースター。これは「東」と関係があるようだ。北欧の「光と春の祭り」と結びついていると言われる。そして聖霊降臨日ペンテコステ。教会の出発の日である。

 いずれも、光と命を求める人類の深い願いと結びついている。天地創造の神、イエス・キリストの父なる神がお持ちで、最も良きもの、それは「神の愛」と「永遠のいのち(神のいのち)」である。神はご自身の最も良きものを、キリストの十字架の死と復活を通して、わたしたちにお与えになった。

 キリストの十字架。それは、神の深い自己犠牲的な愛の行為であって、神に背くわたしたちを赦し受け容れる手だてであり、かつ、ご自身の愛の表現なのである。

 キリストの復活。それは、神が何者にも打ち負かされない全能の父であることの現れである。わたしたちのいのちは、一重に神の恵の御力にかかっている。わたしたちは、どんなにあがいても、自分の力で永遠の生命を手に入れることはできないのであって、ただ、神の愛とあわれみの御力によるものなのである。

永遠の命に至る食べ物

2009.3.15  牧師 中家 誠

 「あなたがたは朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食べ物のために働きなさい」(ヨハネ福音書 6:27)

 ここに2種類の食べ物があることが言われている。この世の肉体を維持するところのものと、それにとどまらず、それ以上のものがこの世にあるということが。これら2つの世界にまたがって、わたしたち人間は存在しているのである。

 「永遠の命に至る朽ちない食べ物」にあずからない人間の一つの現実が、今、全世界でくりひろげられている。「経済的世界恐慌」という形で。

 過日の夕刊に、次のような見出しの記事がのっていた。「傷つき祈る 強欲の街-ウォール街」。この出来事を惹き起こした直接的、かつ根本的原因を厳しく糾弾した言葉である。

 果てしない人間の強欲。「朽ちる食べ物」のみを求めて生きる人間の行き着く先が何であるかを、これは見事に言表わしている。そこには、「人間の共存」という姿もなければ、他者を思いやる心もない。

 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と聖書は教えている(申命記 8:3)。

 「朽ちる食べ物」のためにだけ生きる時、人間そのものが朽ちて行くことを、わたしたちは思い知らされるのである。