平和の王 イエス・キリスト

2009.8.9  マタイ 21:1-11  牧師 中家 誠

 64年前の8月、日本では2つの原爆投下があり(6日広島、9日長崎)、20数万人が死んだ。それは地獄さながらの有様であったのである。そして15日に敗戦日を迎える(わたしたちは、これを単に「終戦」と言わず、「敗戦」という。それは自分たちが始めた戦争の結末を強く意識にとどめるためである)。この戦争を通して、日本では350万人、外国では2,000万人が死んだと言われる。

 このような悲惨をもたらす戦争がなぜ起きるのだろうか? それは自分を守ろうとする心が、人間の欲や力(武器)と結びつき、相手を倒すことよってそれを成り立たせようとすることにあると思われる。

 今ここに、それとは全く別の法則によって生きる人がおられる。それは神から来られたイエス・キリストである。キリストは神の御子であられたにもかかわらず、自分を空しくして人となり、人間の悲しみや苦しみを深く連帯され、最後には、人の罪を負って十字架に死に、神の御前に謝罪してくださったのである。

 それは、「自らの身を守るため、他者を犠牲にする」道とは反対の、「他者を守るため自分を犠牲にする」道である。わたしたちはこの方を頭とする群れである。平和をつくり出すことは至難のわざであるが、神の平和と愛の心を頂き、他者を大切にすることによって、一歩でもこの道を歩んで行く者になりたいと願うものである。

イサク誕生の予告

2009.7.26  創世記 18:1-15  牧師 中家 誠

 信仰の父祖アブラハムの生涯は、神との出会いの生涯であった。そしてそれは、神の訪れによるものである。「福音」とは「よきおとずれ=音信」のことであるが、また「神の訪れ」でもある。

 この時も、アブラハムの予期しない時に、神は3人の旅人として訪れてくださった。その旅人に対し、アブラハムは知らずして(ヘブライ書13:1-2)最高のもてなしをしたのである。

 しかし考えて見るに、真のもてなしをしてくださったのは、むしろ神のほうではなかったか。神は彼に、「来年の今ごろ、わたしは再び来る」と言い、「その時、あなたに子が生まれているでしょう」と告げられた。それは「喜ばしいおとずれ」であるはずだった。しかしアブラハムの妻サラは、心ならずも、心の中で笑ってしまったのである。「自分は年をとり、主人も年老いているのに、何の楽しみがあろうか」と。

 このようにわたしたちは、主のご真実に対し、心の中で不信仰を抱く者たちである。その信仰の弱いわたしたちに、主は礼拝において現われ、祈祷会において現われ、「わたしである。しっかりせよ」と励ましてくださるのである。そして不信の笑いに代えて、信仰の喜ばしい笑い(イサク=彼は笑うの意)を与えてくださるのである。

聖なる神

2009.7.19  イザヤ書 6:1-8  牧師 中家 誠

 預言者イザヤ(今から2750年前の人)が、神から召命(神に用いられるために呼ばれること)を受けた時、彼は神殿の中で、聖なる神の栄光が満ちるのを覚えた。それは高く天にそびえ立ち、また全地に満ちる神の栄光であった。

 そのとき、彼が聞いた天来の響きは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という讃美の声であった。「聖なる」とは、この世と「異なる」「はるかに超えた」との意であり、神が天地の創造者として持ちたもう尊厳と栄光である。

 彼は、その圧倒される力に打たれて、「災いだ、わたしは滅びるばかりだ。汚れた民の中に住む者であるのに、王なる万軍の主を仰ぎ見たのだから」と、心の内に叫んだとある。

 わたしたち日本人は、「神の聖」の観念がうすいと言われる。創造者と被造物が地続きとなっているのである。しかし両者には、絶対的な相違がある。一方は造り主であり、他方は造られたもの。一方は無限であり、他方は有限である。この高き無限の神が低き者となり、愛のゆえに人となって来られたのがイエス・キリストである。ここにキリスト教の基があるのである。

わたしは世の光である

2009.7.12  ヨハネ 8:12-20  牧師 中家 誠

 仮庵の祭りは、イスラエルにとって秋の収穫感謝祭であり、出エジプトの荒野の生活を想起する時である。この祭りはまた、「水の祭り」「光の祭り」とも呼ばれた。シロアムの池から水を汲んできて祭壇に注ぐ。また燈火を明るくともして人々が歌い踊るのである。

 この祭りの終わりに、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は闇の中を歩くことがない」と言われた。主イエスこそ、神のもとから来られた「真の光、命の光」である。これはキリストの自己宣言であり、わたしたちはそれを信じ、教会の信仰告白ともなっている。

 さて、光は闇の中に輝く。闇とは、①わたしたちの死と隣り合わせの苦しみや不安であり、②人の心の中にある憎しみや敵意の闇である。また③「自分が何処から来て、どこへ行く者であるか」を知らないことである。このような心の闇を照らし、いのちの根源者である父なる神のもとに導いてくださるのが、御子イエス・キリストの使命なのである。

 このキリストの証言を信じ受入れ、キリストと命の交わりを持つ時に、人は闇の中を歩くことがない。これは事実である。この証言を信じ受入れた人たちは、死の恐れから解放され、憎しみや敵意から解き放たれ、愛の人として生きたのである。コルベ神父の勇気、マザーテレサの愛は、これを物語る。そこに至ることは容易ではないが、そこに正しい真の生き方があることをわたしたちは知っている。これらは「世の光」であるキリストから来るのである。

わたしを顧みられる神

2009.6.28  創世記 16:1-16  牧師 中家 誠

 神がアブラハムに、「わたしが示す地に行きなさい」と命じた後、10年の歳月が流れた。その時、彼にはまだ子がなかった。妻サラはアブラハムに言う、「わたしの女奴隷のところに入り、わたしに子を与えてください」と。これは神の意に添う道ではなかった。

 やがて女奴隷ハガルは子を宿し、そこに思いがけない亀裂が生じてくる。女奴隷は女主人を軽んじ、女主人は彼女につらく当たるようになった。そこでハガルは、自分の故郷エジプトを目指して逃れようとする。しかしそれは死を意味したのである。

 その時である。主なる神がハガルに出会って問いたもうたのは。「ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。主はすべてをご承知でありつつ、そう問いたもう。そして「あなたはわたしのもとに来なさい。そして生きよ!」と。こうして神は信仰の道、従順の道へと導きたもう。地位も身分もない女奴隷に対してである。

 わたしたちも、人生のただ中で、ただひとり、行くあてのない道を歩いて行く時がある。その途上で、神はわたしたちに出会ってこう言われる。「あなたは何処に行こうとしているのか」と。神はすべての者を顧みたもう神である。それゆえに、わたしたちは天涯の孤児ではなく、永遠の父を持つ者であり、宿なしではなく、来るべき永遠の御国を持つ者たちなのである。

恩寵と召命

2009.6.21  詩編 139:1-18  牧師 中家 誠

 恩寵とは、広辞苑によれば、「罪深い人間が、神から与えられる無償の賜物」とあり、「超自然的な宗教の世界を『恩寵の国』という」とある。

 わたしたち、取るに足りない者が、神の特別な恵の中に遇されることである。昔から、神の恵により、キリストによって贖われた者は皆、この恩寵の世界に生きてきたのである。

 神の恩寵に与かる者は、まず、神の「知遇」(神に知られることの幸い)を受けるのである。創世記のヤコブが(創28:16)、預言者エレミヤが(エレミヤ1:5)、キリストの弟子となったナタナエルが(ヨハネ1:48)、徴税人のザアカイが(ルカ19:5)、そして使徒パウロが(使徒9:4)、皆、自分の名を呼ばれて、神の知遇を受けた。それは、自分が神を知る前に、神に知られていることの不思議な経験である。
 「神を知る」とは、「自分が神に知られている」ことの経験である。詩編139編には、そのことがつぶさに語られている。驚きと喜びをもって。

 そして「召命」とは、その神に知られている自分が、神に捕えられ、神のご栄光を現す者となって行く、その光栄のことである。恩寵に捕えられた人は、必ず、神に応答し、召命(呼ばれること、Calling)に生きる者となって行くのである。聖書はその「証しの書」なのである。