2024.12.1 週報掲載の説教
<2024年10月6日の説教から>
『天から降って来た命のパン』
ヨハネによる福音書6章41節~59節
牧師 鈴木 美津子
ヨハネ福音書には、マタイやマルコ、あるいはルカ福音書に記されているような聖餐式制定の言葉はない。確かに、最後の晩餐の場面において聖餐式のことが全く触れられていない。けれども、ヨハネ福音書が記され、また、読まれていた当時の教会が、聖餐式を行っていなかったということを言っているのではない。なぜなら、キリストの教会は、誕生以来パン裂きを行って来たからである。当然、ヨハネ福音書もまた、主イエスが制定された聖餐式を前提として記され、読まれているのである。ヨハネ福音書は、主イエスが五千人以上の人々に食べ物を与えた奇跡の後、カファルナウムの会堂で、人々に教えられたことをここで改めて記すことによって、聖餐式の深い意味を明らかにしているのである。
56節と57節で、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる」と言われた。この言葉に現わされているのは、聖餐の持っている神秘的な恵みである。私たち自身が主イエスの中にいて、同時に主イエスが私たちの内にいてくださる。さらに、その主イエスは天の父なる神と一つであるから、私たちは主イエスを通して、天の父なる神ともしっかりと結ばれている、一つであるのだ。パンを食べること、杯を飲むことは、十字架の上で死なれた主イエスとの神秘的な結合である。これこそが聖餐式の恵みの中心なのである。
主イエスの肉、そして血を食べ飲むことは、十字架の上で主イエスが肉を裂かれ血を流された、その犠牲、その恵みと一つになること。そして、主イエスが、死んで葬られた後に復活されたように、信じる者もまた復活することがここではっきりと宣言されているのである。復活は、単に死から生き返るということだけではない。死に打ち勝ち、勝利し、主イエスの栄光に与るということである。主イエスの肉と血とに与ること、それは私たちの命そのものだからである。
2024.11.17 の週報掲載の説教
2024.11.17 の週報掲載の説教
<2024年10月13日の説教から>
『永遠の命の言葉』
ヨハネによる福音書6章60節~71節
牧師 鈴木美津子
群衆の中だけでなく、弟子たちの多くも主イエスの言葉に躓いて離れ去った。主イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問う。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(68-69)」と答えた。ペトロは、「あなたがわたしたちの主である以上、わたしたちの居場所はあなたのもとだけだ」と答えたのである。なぜなら、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っておられるお方だからである。このペトロの告白に、離れ去っていた多くの弟子たちと12弟子の違いが浮き彫りにされている。多くの弟子たちが主イエスの御言葉に躓いたのに対して、12人は主イエスが永遠の命の言葉を持っておられると告白することができたのである。このことは12人のうえに聖霊の導きがあったこと、彼らが父なる神の選びの内にあったことを教えている。しかし、そうであっても留まり続けたこの12人中からもやがて裏切り者が出てくる。
これらのことは、今の私たちに何を教えているのか。それは地上の教会には欠けや弱さがあるということである。立派な信仰者と思われていた人が信仰を捨ててしまう。牧師や長老などからさえ信仰を捨ててしまう人がでてくる。そのようなことが地上の教会においては起こりうるからである。このことは他の誰かのことを考える必要はない。むしろ、主イエスがここで求めておられることは、私たち一人一人が自分はどうであろうかと問うことである。「あなたがたも離れていきたいか」という主イエスの問いを自分に対するものとして聞くこと。そして、ペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」との言葉を自分の言葉として語ることである。この日本でキリスト者であり続けることは、困難の伴うことがある。またキリストを信じることでさまざまな誤解や偏見を受けることもある。いっそのこと信仰を捨ててしまった方が楽ではないかとも。しかし、もし信仰を捨ててしまうならば、何を信じて生きていけば良いのか。そもそも主イエスを真の神であると信じている私たちがこの方から離れ去ることなどできるのか。主イエスが私たちを永遠の命に生かすために十字架の死を死んでくださったことを知ってしまった今、この方のもとを離れ去ることができるのか。できないであろう。できない。なぜならキリスト者とはそのことを知っている者のことを言うのだから。自分はキリストなしでもはや生きていくことができないことを知っている者、それがキリスト者だからである。
<2024年10月13日の説教から>
『永遠の命の言葉』
ヨハネによる福音書6章60節~71節
牧師 鈴木美津子
群衆の中だけでなく、弟子たちの多くも主イエスの言葉に躓いて離れ去った。主イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問う。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(68-69)」と答えた。ペトロは、「あなたがわたしたちの主である以上、わたしたちの居場所はあなたのもとだけだ」と答えたのである。なぜなら、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っておられるお方だからである。このペトロの告白に、離れ去っていた多くの弟子たちと12弟子の違いが浮き彫りにされている。多くの弟子たちが主イエスの御言葉に躓いたのに対して、12人は主イエスが永遠の命の言葉を持っておられると告白することができたのである。このことは12人のうえに聖霊の導きがあったこと、彼らが父なる神の選びの内にあったことを教えている。しかし、そうであっても留まり続けたこの12人中からもやがて裏切り者が出てくる。
これらのことは、今の私たちに何を教えているのか。それは地上の教会には欠けや弱さがあるということである。立派な信仰者と思われていた人が信仰を捨ててしまう。牧師や長老などからさえ信仰を捨ててしまう人がでてくる。そのようなことが地上の教会においては起こりうるからである。このことは他の誰かのことを考える必要はない。むしろ、主イエスがここで求めておられることは、私たち一人一人が自分はどうであろうかと問うことである。「あなたがたも離れていきたいか」という主イエスの問いを自分に対するものとして聞くこと。そして、ペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」との言葉を自分の言葉として語ることである。この日本でキリスト者であり続けることは、困難の伴うことがある。またキリストを信じることでさまざまな誤解や偏見を受けることもある。いっそのこと信仰を捨ててしまった方が楽ではないかとも。しかし、もし信仰を捨ててしまうならば、何を信じて生きていけば良いのか。そもそも主イエスを真の神であると信じている私たちがこの方から離れ去ることなどできるのか。主イエスが私たちを永遠の命に生かすために十字架の死を死んでくださったことを知ってしまった今、この方のもとを離れ去ることができるのか。できないであろう。できない。なぜならキリスト者とはそのことを知っている者のことを言うのだから。自分はキリストなしでもはや生きていくことができないことを知っている者、それがキリスト者だからである。
2024.11.10 の週報掲載の説教
2024.11.10 の週報掲載の説教
<2024年9月22日の説教から>
『わたしをお遣わしになったお方の御心を行うために』
ヨハネによる福音書6章22節~40節
牧師 鈴木美津子
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(40)」
主イエスは、自分は御父の御心を行うために天から降ってきたと言われた。主イエスが「わたしが命のパンである」と言われた理由は、この御父の御心のゆえである。主イエスが「わたしこそが、命のパンである」と言われたのは、子を見て信じる者に、永遠の命を与えることができるからである。主イエスは、御父の御心に従って十字架に上げられることによって、罪と死の力に勝利された。それゆえに、主イエスは御自分を信じる者たち、御父から御自分に与えられた者たちに、神との永遠の交わり、永遠の命を与えることができるのである。キリスト者は、主イエスを通して、神を父と呼び、親しく礼拝しているが、そのようにして、キリスト者は、命のパンである主イエスにあずかっているのである。そして、その永遠の命は、主イエスが、終わりの日に主イエスを信じる者を復活させてくださることによって、完成されるのである。主イエスが、「わたしが命のパンである」と言われるとき、それはこの地上を生かす命だけのことを言っておられるのではない。死に勝利する命、復活の命のことを言っておられるのだ。主イエスは、御自分を信じる者たちを終わりの日に復活させるお方として、「わたしが命のパンである」と断言されるのだ。そして、その保証として、主イエスは、十字架の死から三日目に復活されたのである。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。この主イエスの言葉は、主の日の礼拝ごとに、すべての人に向けて今も語られている、力強い招きの言葉である。その招きに私たちはこれからも喜んで従っていきたいと願うのである。たとえ今、信仰に弱さを覚えていたとしても、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という主イエスの言葉に支えられて、この地上の信仰の旅路を共に歩みたいと願う。
<2024年9月22日の説教から>
『わたしをお遣わしになったお方の御心を行うために』
ヨハネによる福音書6章22節~40節
牧師 鈴木美津子
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(40)」
主イエスは、自分は御父の御心を行うために天から降ってきたと言われた。主イエスが「わたしが命のパンである」と言われた理由は、この御父の御心のゆえである。主イエスが「わたしこそが、命のパンである」と言われたのは、子を見て信じる者に、永遠の命を与えることができるからである。主イエスは、御父の御心に従って十字架に上げられることによって、罪と死の力に勝利された。それゆえに、主イエスは御自分を信じる者たち、御父から御自分に与えられた者たちに、神との永遠の交わり、永遠の命を与えることができるのである。キリスト者は、主イエスを通して、神を父と呼び、親しく礼拝しているが、そのようにして、キリスト者は、命のパンである主イエスにあずかっているのである。そして、その永遠の命は、主イエスが、終わりの日に主イエスを信じる者を復活させてくださることによって、完成されるのである。主イエスが、「わたしが命のパンである」と言われるとき、それはこの地上を生かす命だけのことを言っておられるのではない。死に勝利する命、復活の命のことを言っておられるのだ。主イエスは、御自分を信じる者たちを終わりの日に復活させるお方として、「わたしが命のパンである」と断言されるのだ。そして、その保証として、主イエスは、十字架の死から三日目に復活されたのである。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。この主イエスの言葉は、主の日の礼拝ごとに、すべての人に向けて今も語られている、力強い招きの言葉である。その招きに私たちはこれからも喜んで従っていきたいと願うのである。たとえ今、信仰に弱さを覚えていたとしても、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という主イエスの言葉に支えられて、この地上の信仰の旅路を共に歩みたいと願う。
2024.11.3 の週報掲載の説教
2024.11.3 の週報掲載の説教
<2024年9月8日の説教から>
『わたしだ。恐れることはない』
ヨハネによる福音書6章16節~21節
牧師 鈴木美津子
ガリラヤ湖は、普段は穏やかな美しい湖であったが、時として深い谷から吹き下ろす強風のために天候が急変することで有名であった。この時も、夜、弟子たちがカファルナウムに向けて出発したときは、湖は穏やかであったが、その途上において、強い風が吹き、湖は荒れ始めた。弟子たちは、このとき死の危険、滅びの危険に直面していた。もし、舟が転覆してしまうようなことがあれば、彼らは溺れ死んでしまうからである。荒波を踏み砕かれ近づく主イエスは、恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」と言われた。「わたしだ」とは、「わたしである」とも訳すことができる言葉で、その昔、神がモーセに知らせた御自身の名前と重なるものである。
弟子たちは、高波を踏み砕かれる主イエスの姿に、神の御力を見た。そして、さらに主イエスの口から、「わたしはある」ということを言われた。そうであれば、これはもう恐れるしかない。人間が生ける神の前に立つとき、抱く感情は恐れである。しかし、主イエスは「恐れることはない」と言われた。なぜなら、主イエスが荒波を踏み砕くようにして弟子たちに近づいて来られたのは、彼らを飲み込もうとしていた死と滅びの力から彼らを救うためであったからである。弟子たちは、荒れ狂う湖での危機的状況においてこそ、真の主イエスの姿、高波を踏み砕かれ、「わたしはある」と言われる神の御子としての主イエスに出会うことができたのである。主イエスは、死と滅びの中にある弟子たちにこそ、御自分が神の御子であることを決定的な仕方で示されたのである。
その「彼らはイエスを迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。このことは、私たちに何を教えているのか。それは、主イエスを迎え入れようとする信仰に生きるとき、私たちは必ず目指す地に到達するということ。主イエスを、海の高波を踏み砕くお方、「わたしはある」と言われる神その方として迎え入れる信仰に生きるとき、私たちは死と滅びから救われ、必ず目指す地へ到達するのだ。では、私たちが目指す地とは一体どこであるのか。それは究極的には、主イエスがおられる天の国である。主イエスを神の御子と信じるとき、私たちは強い風と荒波から救われ、必ず天の国へ入ることができるのである。
<2024年9月8日の説教から>
『わたしだ。恐れることはない』
ヨハネによる福音書6章16節~21節
牧師 鈴木美津子
ガリラヤ湖は、普段は穏やかな美しい湖であったが、時として深い谷から吹き下ろす強風のために天候が急変することで有名であった。この時も、夜、弟子たちがカファルナウムに向けて出発したときは、湖は穏やかであったが、その途上において、強い風が吹き、湖は荒れ始めた。弟子たちは、このとき死の危険、滅びの危険に直面していた。もし、舟が転覆してしまうようなことがあれば、彼らは溺れ死んでしまうからである。荒波を踏み砕かれ近づく主イエスは、恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」と言われた。「わたしだ」とは、「わたしである」とも訳すことができる言葉で、その昔、神がモーセに知らせた御自身の名前と重なるものである。
弟子たちは、高波を踏み砕かれる主イエスの姿に、神の御力を見た。そして、さらに主イエスの口から、「わたしはある」ということを言われた。そうであれば、これはもう恐れるしかない。人間が生ける神の前に立つとき、抱く感情は恐れである。しかし、主イエスは「恐れることはない」と言われた。なぜなら、主イエスが荒波を踏み砕くようにして弟子たちに近づいて来られたのは、彼らを飲み込もうとしていた死と滅びの力から彼らを救うためであったからである。弟子たちは、荒れ狂う湖での危機的状況においてこそ、真の主イエスの姿、高波を踏み砕かれ、「わたしはある」と言われる神の御子としての主イエスに出会うことができたのである。主イエスは、死と滅びの中にある弟子たちにこそ、御自分が神の御子であることを決定的な仕方で示されたのである。
その「彼らはイエスを迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。このことは、私たちに何を教えているのか。それは、主イエスを迎え入れようとする信仰に生きるとき、私たちは必ず目指す地に到達するということ。主イエスを、海の高波を踏み砕くお方、「わたしはある」と言われる神その方として迎え入れる信仰に生きるとき、私たちは死と滅びから救われ、必ず目指す地へ到達するのだ。では、私たちが目指す地とは一体どこであるのか。それは究極的には、主イエスがおられる天の国である。主イエスを神の御子と信じるとき、私たちは強い風と荒波から救われ、必ず天の国へ入ることができるのである。
2024.10.20 の週報掲載の説教
2024.10.20 の週報掲載の説教
<2024年9月1日説教から>
『欠けた部分を、神の恵みが覆ってくださる』
ヨハネによる福音書6章1節~15節
牧師 鈴木美津子
主イエスが、五つのパンと二匹の魚を祝福して五千人以上の人々に配られると、そこにいた全ての人々が満腹した。またパンくずが「十二のかごに一杯になった」とヨハネは記す。この奇跡の出来事の中心は「信仰」である。少年は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある大麦のパン五つと魚二匹を差し出した。差し出してどうなるという当てはなかったけれども、自分が食べるのをあきらめて差し出したのである。弟子たちは目の前の五千人以上の人々を見て、また手元に五つのパンと二匹の魚しかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめる。フィリポはこれだけの人数にパンを与えるのは無理だといい、アンデレは五つのパンと二匹の魚では何の役にも立たないとため息をついた。彼らには「神が働いて下さる」という信仰がなかったのだ。
しかし、主イエスはわずかな物を差し出した少年のうちに信仰を見られた。「その信仰さえあれば神は応えて下さる」と主イエスは天を仰いで感謝された。
私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、主イエスの前にそれを差し出し、主イエスに祝福され、主イエスの御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていく。もし私たちが生活の中で、「あれもない」、「これもない」と不足や不満を言っている時、それは私たちがフィリポやアンデレの陥った過ちに陥っているのだ。「必要なものは神が与えて下さる」ことを忘れているからのである。
この奇跡の出来事では、少年が自分の持っているものを差し出した時、弟子たちは「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。(9)」と、そのわずかなものが何の意味を持つのかと疑った。しかし、少年が自分の持っていた「五つのパンと二匹の魚」を主イエスの前に差し出すことがなければ、この奇跡は起こらなかった。
たとえ、人の目には小さなもの、僅かなもの、それが何の役に立つだろうと思ったとしても、自分に与えられているものを主イエスのものと差し出すとき、主イエスはそれを何倍、何十倍、何百倍にも増して用いてくださるのである。それがこの奇跡の出来事が教えていることである。
<2024年9月1日説教から>
『欠けた部分を、神の恵みが覆ってくださる』
ヨハネによる福音書6章1節~15節
牧師 鈴木美津子
主イエスが、五つのパンと二匹の魚を祝福して五千人以上の人々に配られると、そこにいた全ての人々が満腹した。またパンくずが「十二のかごに一杯になった」とヨハネは記す。この奇跡の出来事の中心は「信仰」である。少年は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある大麦のパン五つと魚二匹を差し出した。差し出してどうなるという当てはなかったけれども、自分が食べるのをあきらめて差し出したのである。弟子たちは目の前の五千人以上の人々を見て、また手元に五つのパンと二匹の魚しかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめる。フィリポはこれだけの人数にパンを与えるのは無理だといい、アンデレは五つのパンと二匹の魚では何の役にも立たないとため息をついた。彼らには「神が働いて下さる」という信仰がなかったのだ。
しかし、主イエスはわずかな物を差し出した少年のうちに信仰を見られた。「その信仰さえあれば神は応えて下さる」と主イエスは天を仰いで感謝された。
私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、主イエスの前にそれを差し出し、主イエスに祝福され、主イエスの御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていく。もし私たちが生活の中で、「あれもない」、「これもない」と不足や不満を言っている時、それは私たちがフィリポやアンデレの陥った過ちに陥っているのだ。「必要なものは神が与えて下さる」ことを忘れているからのである。
この奇跡の出来事では、少年が自分の持っているものを差し出した時、弟子たちは「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。(9)」と、そのわずかなものが何の意味を持つのかと疑った。しかし、少年が自分の持っていた「五つのパンと二匹の魚」を主イエスの前に差し出すことがなければ、この奇跡は起こらなかった。
たとえ、人の目には小さなもの、僅かなもの、それが何の役に立つだろうと思ったとしても、自分に与えられているものを主イエスのものと差し出すとき、主イエスはそれを何倍、何十倍、何百倍にも増して用いてくださるのである。それがこの奇跡の出来事が教えていることである。
2024.10.13 の週報掲載の説教
2024.10.13 の週報掲載の説教
<2024年8月25日説教から>
『誰からの誉れを求めるのですか』
ヨハネによる福音書5章41節〜47節
牧師 鈴木美津子
主イエスは、ユダヤ人たちが父なる神の証しを受け入れない理由を3つ挙げられた。1つ目は、ユダヤ人たちの内に神への愛がないということ。2つ目は、ユダヤ人たちが唯一の神からの誉れを求めようとしないということ。3つ目は、ユダヤ人たちがモーセの書き記したこと、つまり旧約聖書を信じていないということである。この3つは、今の時代の多くの人々が、父なる神の証しを受け入れず、主イエスを信じようとしない理由とも重なる。
そもそも、ヨハネ福音書における「ユダヤ人たち」とは、主イエスを受け入れない世を代表する者たちのことであって、民族としてのユダヤ人を指し示しているのではない。主イエスを信じない世の代表がユダヤ人たちのことである。なぜ、多くの人々が、(今もなお)父なる神の証しを受け入れず、永遠の命を得るために主イエスのもとへと来ないのか。それは彼らの内に神への愛がなく、彼らが唯一の神からの誉れを求めず、聖書を信じていないからである。
ところで、主イエスは、ユダヤ人たちに、「あなたたちは、神への愛がない、あなたたちは唯一の神の誉れを求めようとしない、あなたたちは聖書を信じていない」と言って、彼らの不信仰を断罪されたのではない。そう、断罪されたのではないのだ。それどころか、「わたしはあなたたちを父に訴えない」とまで言われるのだ。ここに、この主イエスの言葉に「命を得るためにわたしのところへ来なさい」という主イエスの熱心な招きがあるのだ。そして、主イエスは、御自分のもとへ来る者たちに、神への愛を与え、唯一の神からの誉れを求める者とし、聖書を信じる者としてくださるのだ。
主イエスは、主の日の礼拝ごとに、私たちを御もとへと招いてくださる。復活された主イエスは、主の日の礼拝を通して、神を愛し、唯一の神からの誉れを求め、聖書を信じて生きよと、私たち一人一人の生活を整え、導いてくださる。
礼拝こそが、神への愛の最高の表現であり、礼拝においてこそ、人は神からの誉れに与ることができる。私たちは、主イエスにおいて、神の子とされて、神を誉めたたえる者そして神からの誉れに与る者とされている。私たちは、これにまさる誉れ、栄光は、この地上にないということを、主日の礼拝毎にはっきりと胸に刻むのである。
<2024年8月25日説教から>
『誰からの誉れを求めるのですか』
ヨハネによる福音書5章41節〜47節
牧師 鈴木美津子
主イエスは、ユダヤ人たちが父なる神の証しを受け入れない理由を3つ挙げられた。1つ目は、ユダヤ人たちの内に神への愛がないということ。2つ目は、ユダヤ人たちが唯一の神からの誉れを求めようとしないということ。3つ目は、ユダヤ人たちがモーセの書き記したこと、つまり旧約聖書を信じていないということである。この3つは、今の時代の多くの人々が、父なる神の証しを受け入れず、主イエスを信じようとしない理由とも重なる。
そもそも、ヨハネ福音書における「ユダヤ人たち」とは、主イエスを受け入れない世を代表する者たちのことであって、民族としてのユダヤ人を指し示しているのではない。主イエスを信じない世の代表がユダヤ人たちのことである。なぜ、多くの人々が、(今もなお)父なる神の証しを受け入れず、永遠の命を得るために主イエスのもとへと来ないのか。それは彼らの内に神への愛がなく、彼らが唯一の神からの誉れを求めず、聖書を信じていないからである。
ところで、主イエスは、ユダヤ人たちに、「あなたたちは、神への愛がない、あなたたちは唯一の神の誉れを求めようとしない、あなたたちは聖書を信じていない」と言って、彼らの不信仰を断罪されたのではない。そう、断罪されたのではないのだ。それどころか、「わたしはあなたたちを父に訴えない」とまで言われるのだ。ここに、この主イエスの言葉に「命を得るためにわたしのところへ来なさい」という主イエスの熱心な招きがあるのだ。そして、主イエスは、御自分のもとへ来る者たちに、神への愛を与え、唯一の神からの誉れを求める者とし、聖書を信じる者としてくださるのだ。
主イエスは、主の日の礼拝ごとに、私たちを御もとへと招いてくださる。復活された主イエスは、主の日の礼拝を通して、神を愛し、唯一の神からの誉れを求め、聖書を信じて生きよと、私たち一人一人の生活を整え、導いてくださる。
礼拝こそが、神への愛の最高の表現であり、礼拝においてこそ、人は神からの誉れに与ることができる。私たちは、主イエスにおいて、神の子とされて、神を誉めたたえる者そして神からの誉れに与る者とされている。私たちは、これにまさる誉れ、栄光は、この地上にないということを、主日の礼拝毎にはっきりと胸に刻むのである。