NEW! 2025.1.26 週報掲載の説教

2025.1.26 週報掲載の説教

<2024年12月15日説教から>

『主が来られる道を整える』

ルカによる福音書3章1節~6節

 
牧師 鈴木美津子

 
「イザヤ書」の文脈で読めば、荒れ野に備えられる主の道とは、バビロンの地からエルサレムへと至る道のことである。苦役の時が満ちたイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する。その民を導かれるのが主なる神である。それゆえ、バビロンからエルサレムへの道は、主が通られる道である。その主に先立って、伝令は進み、まっすぐで平らな主の道を備える。ルカ福音書が、ヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であると言うとき、それは心の有り様のことである。つまり、悔い改めるとは、主を迎えるために、曲がった心をまっすぐにし、でこぼこな心を平らにするのである。そのようにして、洗礼者ヨハネの後から来る主イエスを迎え入れるとき、人は皆、神の救いを見る。

 
「私よりも力のある方が来られる。その御方をお迎えする備えをせよ。そうすれば、あなたたちは皆、神の救いを見ることができる。罪の赦しを得ることができる」、と良き知らせをヨハネは告げる。このヨハネのメッセージは、主イエスが来られた後の時代に生きる私たちには関係がないのであろうか。そうではない。なぜなら、十字架の死から復活され、天に昇られた主イエスは、再びこの地上に来られるからだ。私たちは、主イエスの洗礼、聖霊による洗礼を受けて、罪の赦しを既に得ている。しかし、私たちは完全な救いにあずかっているわけではない。私たちの救いが完成されるのは、主イエスが、天から再び来られる日である。それゆえ、日々悔い改めて、主をお迎えするためにまっすぐで平らな心を備える必要があるのだ。

私たちは、主イエスを信じる者として、主の日の礼拝に集い、罪の赦しにあずかり、神の救いを見る。しかし、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰によることである。私たちは信仰によって、目に見えない方をまるで見えるかのように礼拝しているのだ。けれども、主イエスが天から再び来られる日に、私たちは、生きていれば栄光の体に変えられて、死んでいれば栄光の体に復活させられて、その目をもって、主イエスと父なる神を見ることになる。その日、その時、私たちは罪の支配から完全に解放された正しい者として、主イエスと父なる神を仰ぎ見て、礼拝をささげることになるのである。