2024.6.23 の週報掲載の説教

2024.6.23 の週報掲載の説教

<2024年4月28日の説教から>

「主はわたしたちの心の中を知っておられる」
ヨハネによる福音書2章23節~25節

牧師 鈴木 美津子

 
多くのユダヤ人が「イエスの名」を信じたが、主イエスご自身は彼らを信用されなかった。なぜなら、主イエスは何が人間の心の中にあるかを、よく知っておられたからである。主イエスは、人間の心の中がどれほど罪深く愚かなものであるかをよく知っておられたのである。彼らは、見るべき「しるし」ではなく、主イエスがなさった不思議なわざに驚いて、「この人はすごい人だ」信じたからだ。

目に見える「奇蹟」「癒し」を重んじて、求めていく心が人間の中にある。「見たら信じられる」という心である。そのような心、信仰の態度、一時的な熱狂によって信じる者を主イエスは信じない。神はもちろん、病いを「癒す」ことがおできになる。しかし、それが自分の思い通りに叶わなかったら信じないのであれば、単なる「御利益信仰」である。もちろん私たちは苦しみの中で、救いを求め、切羽詰まった状況の中で神に近づくことがある。神はそのように助けを求める思いを拒否なさらず、受け入れてくださる。その中で神との関係、神を信頼するというつながりができていく。そのことなしに単なる願いのみに留まるのであれば、神が自分の願いを叶えなかったり都合の悪いことが起こったりしたら神から離れていく、というような自己中心の信仰で終わってしまうのである。

しかし、このことは、単に「しるし」を見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない。私たちがどのようなきっかけで信仰に入るにせよ、私たちは「イエス・キリストの十字架の死と復活」という「しるし」こそ信じなければならないからである。いや、むしろ、私たちの信仰にとっては、これだけあれば十分なのだ。

神は主イエスの十字架の死と復活を通してご自身の愛と真実を表わされた。その神を信じ、良い時も悪い時も信頼して生きて行くことが求められている。「信仰」とは「神への人格的な信頼」である。そうであるから、私たちは主イエスを「救い主」と信じ、交わりを持ち、神と相対して生きることが求められている。そのような信仰でなければ、私たちは人生の危機の中で信仰を全うすることができないからである。