2017.01.15の説教から

<2017年1月15日の説教から>
『わたしはあの男に何の罪も見いだせない』
ヨハネによる福音書18章38節b~19章7節
                               牧師  三輪地塩


ピラトはユダヤ人たちに問いかけた。「ところで、過越祭にはだれか
一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の
を釈放してほしいか。」

 ピラトははイエスを解放しようとしたがユダヤ人たちの答は「その男だ

ない。バラバを」であった。バラバは十字架の「赦免」の場面にしか出

てこないが、キリスト教界では有名な人物となった。マタイ福音書ではバ

ラバの罪状については触れず、マルコは「暴動時の殺人」と伝える。

ルカ福音書は「殺人」ヨハネ福音書は「強盗」と書かれている。おそらく

は、ローマ帝国への武力抵抗を訴えた熱心党(ゼーロータイ)の一員

だったのではないかと考えられる。

 「バラバ」という名前、「バラッバース」というのが言語での読み方であ

が、「バル」(誰々の子)、「アッパース」(人物名)で「アッパースの子イ

ス」という事になる。

 これは大変興味深いことである。19章7節で「わたしたちには律法があ

ます。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称した

からです。」と言われているように、「神の子と自称した」ことを罪状にし

ているからである。

 つまり、ピラトはユダヤ人に二つの選択を迫っているのである。「アッ

スの子イエスを釈放するか」それとも「神の子イエスを釈放するか」の

選択である。民衆は、神の子と━どこの馬の骨とも分らない輩である━

アッパスの子のうち、後者を選択したのである。何と愚かなチョイスであ

ろうか。

 ピラトはイエスを民衆の前に引き出し、「これで勘弁したらどうだ」という

意味を込めて「見よこの男だ」といった。由木康作詞の121番の讃美歌

は「~この人を見よ」が1~4番の全てでリフレインされる。特に4番は「

この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる。この人を見
よ、この人こそ、人となりたる、活ける神なれ」と歌われ、「この人を見

よ」何度も繰り返される。「この人」とは、決してアッパスの子などでは

く、真の神の子である、という信仰告白をこの讃美歌の中に見いだす。