2021.2.21 の週報掲載の説教

<2019年11月17日の説教から>

ペトロの手紙Ⅱ 3章14節~18節

堅固な足場を失わず』
牧師 三輪地塩

「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」と言われる。ここにある「忍耐深さ」とは「痛み」や「苦難」と言い換えることも出来る。その苦難こそが我々の救いであるとペトロは言う。キリストの忍耐は「我々への愛」としての忍耐に他ならない。キリストの愛こそ救いの根源であると著者ペトロは述べている。

ここにはペトロの手紙Ⅱのテーマ「偽教師に気を付けろ」が出てくる。使徒パウロが信徒たちに伝えてきたのは、ルターの言葉を使うならば「信仰義認」である。行いによってではなく、信仰によって義とされる。罪深い我々であっても、信仰によって正しい者と見做されるというのがパウロの使信の中心だ。だが「偽教師」と言われている、恐らくユダヤ教的キリスト者と考えられるこの偽教師集団は、信仰義認ではなく「行為義認」によって救われると説いていた。

そこで本書簡の著者(とされる)ペトロは、信仰の先達であり、キリスト教神学の創始者パウロのメッセージを、曲解したり、ねじ曲げたりしてはならないと注意喚起する。聖書の端々から、自分の好きな部分を抜き取り、自分の都合の良いように繋ぎ合わせて、継ぎ接ぎの信仰にしてしまう間違った読み方はいけないと警告する。聖書は「繋ぎ合わせ」ではなく、全体として「正しく読む」ことが必要だ。17節の「堅固な足場」とは、まさに正しく聖書を読むことの大切さを言っている。

聖書全体を理解することについて、注解者パーキンスは次のように言う。「聖書を読む、という行為は、まるで子どもたちが、ごちゃ混ぜになったおもちゃ箱からおもちゃを取り出すようなものである。それはただごちゃ混ぜになっているように見えながら、子どもたちは、その箱のどの部分に何があり、おもちゃ箱全体がどうなっているかを把握しているから、彼らは混乱しない」と。聖書には66書あり、様々なことが書かれているが、その部分だけを取り出して、聖書を勝手に解釈してはならない。聖書から自分に都合の良い部分を取り出し、「これがクリスチャンのあり方だ」とか「こう生きるのが正解だ」などという断定を聖書の一部の箇所から引っ張り出すならば、それは間違いとなる。聖書は「全体」で読み解かねばならない。「堅固な足場」とは、まさに聖書全体のことを言っている。