2025.4.13 週報掲載の説教

2025.4.13 週報掲載の説教

<2025年2月23日の説教から>

『「わたしはある」というお方』

ヨハネによる福音書8章21節〜30節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(24」と警告された。「わたしはある」とは、「生ける真の神」の称号である。ですから24節は、「主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」、という意味になる。つまり、主イエスを信じるか、信じないか、これが、人間が生きるか死ぬか、このいずれかを決めることである、ということであり、逆に言えば、主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じれば、罪のうちに死ぬことはない、ということにもなる。これこそがキリスト教そのものである。キリスト教は、イエスが主であり、「わたしはある」という信仰の上に立っている。私たちが死から命へと移されている根拠もここにある。「わたしはある」、ここにこそ命がある。

この箇所で主イエスは三度、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告されたが、その罪は主イエスを信じないばかりか、主イエスを十字架の死へと引き渡すことへと至る。人間の罪は、神の御子イエス・キリストを十字架に上げるほどに、おぞましい。端的に言えば、人間の罪とは神を殺して自らを神とすることに極まる。しかし、その罪を覆ってしまうほどに神の恵みは豊かなものである。なぜなら、人間の敵意、殺意が最も燃え上がった所で、主イエスがご自分を神の御子であることを示されたからである。十字架の呪いの死を、それこそ陰府の最も暗いところに行くと信じられていた死を、主イエスはすべての人の身代わりとして死なれることで、ご自分がいつも父なる神の御心に適うことを行う御子であることを示された。ユダヤ人たちは、主イエスに対して「自殺でもするつもりなのだろうか」と嘲ったが、ある意味この言葉は当たっている。なぜなら、主イエスは十字架の死を御父の御心として受けとめ、自ら十字架の死を死なれたからである。そのようなことができたのは、このお方が、父なる神と共に歩まれた神の御子であるからだ。このことを信じるとき、私たちは自分の罪の外に出ることができる。わたしの罪のために十字架に上げられた神の御子を信じることによって、自らの罪から解放されて、主イエスの復活の命に生きることができるのである。