2025.4.6 週報掲載の説教

2025.4.6 週報掲載の説教

<2025年2月16日の説教から>

『わたしは世の光である』

ヨハネによる福音書8章12節~20節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(12)」と言われた。「世の光」とは、「世を照らす光」ということである。ヨハネ福音書は「初めに言があった(1)」と始まるが、そのあとで、「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている(1:4-5)」と続く。あるいは「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(1:9)」とある。主イエスこそ、この世を照らす光、道しるべである。かつてイスラエルの民は、荒れ野で迷うことがないよう、火の柱という光が与えられた。それと同じように、あるいはもっと確かな仕方で、主イエスは、光として私たちの行く道を照らしてくださる。詩編119編に「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」とある。主イエスの行いや言葉は、私たちには聖書を通して示されている。であるから聖書こそが主イエスの光を映し出している。聖書こそが光であるのだ。
また「世の光」は、「世を照らす光」であると同時に、「世を裁く光」でもある。私たちは、光を求めると同時に、光を恐れる。光は私たちの暗い部分、罪の部分を汚れた部分、闇の部分をも、否応なく照らし出すものであるからである。光は裁きを伴っているからである。

主イエスは「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている(14)」と語っておられる。これは、もちろんご自分が父なる神のもとから、この世界にやってきて、やがてまた父なる神のもとへ帰るということを指し示しているのであるが、主イエスは、その前に「苦しみを受け、十字架にかかって死ななければならない」ということも知っておられた。主イエスがそのようなお方であるからこそ、まことの世の光であるのだ。「イエス・キリストは世の光としてこの世に来られた」というのは、クリスマスの大きなメッセージであるが、それは最後の十字架をも含んでいることなのである。

主イエスは、私たちの罪をそのような形で担っていてくださるからこそ、裁きでは終わらない、救いをも指し示しておられるのである。主イエスこそがまことの人生の道しるべとしての光であるということをしっかりと心に留めたい。