2025.3.30 週報掲載の説教

2025.3.30 週報掲載の説教

<2025年2月9日の説教から>

『わたしもあなたを罪に定めない』

ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節

牧師 鈴木美津子

 
あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい(7)」

これは、誰も予期していなかった言葉であろう。しかし、誰もこの言葉に対して、反論することはできない。人々は、一人去り、二人去りして、最後には誰もいなくなってしまった。
私たちは他人の欠点、罪、過ちというのはよく見えても、自分自身のことはなかなか見えないものである。見えないにもかかわらず、見えていると思い込んでいる。勝手に自分でもみ消して、ないもののようにしている。自分の罪は棚上げにして、他人を責めて、他人の罪を裁こうとする。ところが一番の問題は、自分自身の中にあるのではないか。そういう問いかけである。主イエスの言葉は、「あなたにはその資格があるのか」と問いつつ、「本当に彼女を裁くことができるものは誰か」を指し示している。彼らの中には、その資格のある人は誰もいなかった。最後に残ったのは、この女性と主イエスだけであった。
主イエスは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか(10)」と問う。女性が「主よ、だれも」と言うと、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(11)」と言われたのである。主イエスは、この女性の罪を決して水に流してしまったり、もみ消したりしようとしておられるのではない。また逆に律法を否定したり、無視しようとされたりしたのでもない。律法は律法として、神の意志は意志として、罪は罪として、厳然と存在する。それをあいまいにすることはできない。罪の赦しということと、罪の是認ということは違うということを心に留めなければならない。

「わたしもあなたを罪に定めない」ということは、実は「その裁きは、私が引き受ける」ということなのである。罪は裁かれなければならない。徹底的に罪が裁かれて、その中から赦しの宣告がなされるのである。

私たちは、キリスト者として生きる時に、どちらかと言えば、この「律法学者やファリサイ派の人々」のように、人を裁いてしまうものである。主イエスはそのような私たちの思いをもその身に引き受けて、間違いをただしながら十字架におかかりくださったのである。そのことを深く心に留めたいと思う。