2025.3.9 週報掲載の説教

2025.3.6 週報掲載の説教

<2025年1月26日の説教から>

『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』

ヨハネによる福音書7章37節〜39節

牧師 鈴木美津子

 
仮庵の祭りのモチーフの一つは「水」である。この祭りの期間中、シロアムの池から汲んだ水を神殿に運ぶ行列が途絶えず、人々はその行事に陶酔していた。主イエスは、サマリアの女に、飲んでもすぐにまた乾く物理的な水から永遠の命に至る水を教えたように、この祭りのその行事で使われる物理的な水を用いて、永遠の命に至る水、つまり聖霊なる神を示された。ただの水に偶像崇拝的に陶酔する彼らに、真に礼拝しなければならない真の水が何であるかを示されたのである。

「生きた水」と訳された言葉は、正確に訳せば「生きている水」となる。常に湧き出で、流れ、躍動する水、命の源であり、命そのものである水。聖霊なる神が「生きている水」と喩えられる。また、「流れ出るようになる」とは、未来形をとっていて、この事態はまだ起こっていないが、やがて実現する、という意味である。39節の「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」とは、それを説明しているかのようである。

「イエスの栄光」とは、十字架から始まる救いの御業の実現で、具体的には、十字架、復活、昇天、この出来事全体である。ですから、逆に言えば、主イエスが栄光を受けられると、“霊”が降る、ということである。これはペンテコステの出来事の予告をするそのための未来形である。ペンテコステ以降、聖霊が降り、信仰者の中に聖霊が泉の水源のように住まい給う、そこから、汲めども尽きぬ永遠の命の水が溢れ続ける、これはこの聖霊が与えられるという約束である。ですから、ペンテコステ以降のキリスト者には、必ず聖霊が与えられている。私たちもまた「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、その一人であるのだ。

主イエスの十字架と復活を信じる信仰者には、聖霊が降り、それぞれの中に住んでくださって「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、この永遠の命の保証が与えられる。主イエスが実現してくださった十字架と復活での救いを、私たちに適用して下さるのが、聖霊なる神である。