2025.2.16 主日礼拝の案内

2025.2.16 主日礼拝の案内
イエスは再び言われた。

「私は世の光である。

わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

(ヨハネによる福音書8章12節)

 
週 報 81巻 7号 2025.2.16
 
主 日 礼 拝 午前  10:30
奏楽  田 中  愛
<神の招き>
 
招 詞   ヘブライ人への手紙11章1節~3節
 
讃 詠   (21)28
 
罪の告白と赦し 詩編51編12節~21節
 
讃美歌  (21)211
 
<神の言葉>
 
聖 書  出エジプト記13章17節~22節(旧約P.115)
 
ヨハネによる福音書8章12節~20節  (新約P.181)
 
祈 り                森 﨑 千 恵
 
讃美歌  (21)236
 
説  教
 
 「わたしは世の光である」   鈴木 美津子
<神への応答>
 
讃美歌  (21)503
 
十 戒
 
公 告  
 
献金感謝 
 
主の祈り
 
頌 栄   (21)27
 
派遣と祝福
 
後 奏 
 
礼拝当番

(今週)三浦 勇二

(次週)増田 裕子

 
献金当番

(今週)菊地 晴子 福永 真理

(次週)野田 昭子 菊池 淑子

 
ライブ配信当番

(今週)薄田東正

(次週)小出 勝

2025.2.17 ~2025.2.23 の集会案内

2025.2.17 ~2025.2.23 の集会案内

      集 会

 
〇日曜学校(2階礼拝堂)      9:00

 
〇讃美歌を歌う会(どなたでも)  礼拝後

 
〇90周年記念事業委員会       礼拝後

 
今 週 の 集 会

 
◎祈祷題 「神学生のため、神学校卒業式のため」

 
〇聖書の学びと祈りの会  2月20日(木)10:00

ダニエル書11章(担当 鈴木 美津子)司会 板 垣 玲 子

 
【牧師予定】

〇2月17日(月)~18日(火)北関東教職者会(上田教会)宿泊

 
次  週  礼 

 
説教「『わたしはある』というお方」         鈴木 美津子

 
出エジプト記3章11節~20節

ヨハネによる福音書8章21節~30節

 
讃美歌     田 中  愛

*545A、27、91、171、542

日曜学校説教 「エゼキエルの召命」  鈴木 美津子

エゼキエル書2章1節〜3章3節

2025.2.16 週報教会のお知らせ

2025.2.16 週報教会のお知らせ

◇ウエストミンスター小教理問答

問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。

 
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ1、直ちに栄光にはいり

ます2。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま3、

復活まで4墓の中で休みます5。

1 へブル12:23

2 Ⅱコリント5:1、5:6、5:8、ピリピ1:23、ルカ23:43

3 Ⅰテサロ二ケ4:14  4 ヨブ19:26~27  5 イザヤ57:2

 
◇本日、日本軍「慰安婦」問題と取り組む会世話人会(WEB)

15:00~

 
【神学校卒業式のお知らせ】

2025年2月24日(月・休)13:00~ 神学校礼拝堂

卒業生:佐々木英二さん

*対面とオンラインで行います。詳細は1階掲示板にあります。

 
◇能登半島災害支援募金51,500を石川県珠洲市に送金致しました。

ご協力有り難うございました。

2025.2.16 週報掲載の説教

2025.2.16 週報掲載の説教

<2025年1月19日の説教から>

『わたしをお遣わしになった方』

ヨハネによる福音書7章25節〜36節

牧師 鈴木美津子

 
確かに人々は主イエスがガリラヤのナザレ出身であることを知っていた。しかし、彼らは主イエスの本当の出身がどこであるかを知らない。それは主イエスが神から遣わされたお方であることを彼らが信じようとしないからである。主イエスが神から遣わされたことを信じないのは、彼らが神を知らないからに他ならない。主イエスが父である神から遣わされたことを信じるかどうか。これが信仰と不信仰の分かれ目とも言える大切な点である。この後、主イエスは何度も、御自分が神から遣わされた者であることを教えられる。福音書記者ヨハネによれば、弟子とはこのことを知り、信じた者たちのことを言うのである。主イエスの弟子とは、主イエスが語られる神から受けた言葉を受け入れること、主イエスが神の御もとから出てきたことを本当に知ること、神が主イエスを遣わされたことを信じた者たちを言うのである。主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じる者たち、それが主イエスに神が与えられた人々なのである。

では、主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じるとは何を意味しているのか。それはこのお方が初めから神と共におられた神の独り子であるということを信じるということである。私たち人間は誰もがこの地上で生を受ける。夫婦の交わりを通して、私たち人間の命は始まる。けれども、主イエスはそうではない。主イエスは神の御子でありつつ、人となられたお方である。イエス・キリストは肉と呼ばれる人の性質を取る前にも、永遠から神と共におられた「言」である。それゆえ、主イエスが神の御もとから出て来たことを本当に知り、神が主イエスを遣わされたことを信じている者こそ、キリスト者である。

ナザレのイエスという人物が歴史的に存在したということは、誰も否定することのできない事実であるから、主イエスがガリラヤのナザレの出身であることは、誰もが知っていることである。けれども、それで本当に主イエスの出身について知ったことになるのか。決してそうではない。そのことを主イエスは、現代に生きるこの私たちにも大きな声で教えてくださっている。