2025.2.9 週報掲載の説教
<2024年12月29日の説教から>
『「待つ」という希望』
ルカによる福音書12章35節〜40節
牧師 鈴木美津子
この譬えでは婚宴に出かけた主人の帰りを待つ僕の姿が問題になっている。イスラエルの婚宴は、数日間に渡るものもあったと言われている。婚宴に出かけた主人がいつ帰って来るかは僕には全く見当がつかない。真夜中や、夜明けに帰ってくるかもしれない主人を「腰に帯を締め、ともし火をともして」待つことが僕に求められる。腰に帯を締めて待つのは、主人が帰ってきたら、すぐに主人の履き物を脱がせ、足を洗い、飲み物を用意するため、ともし火をともして待つのは、暗い夜道を歩いて帰ってくる主人が道を間違えないようにするためである。
ここで取り上げられているのは、主イエスの「再臨」である。それがいつなのか、分からない。主イエスが突然、再臨されて、私たちのところに姿を現した時に、私たちがすぐに迎えることができるように準備し、備えていることが求められる。
ところで、このたとえ話は、主人を迎えた後に思いがけない展開をする。「主人は帯を締めて、僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる(37)」というのである。主人と僕との立場が逆転する。主人が給仕する者となり、僕が給仕される者となる。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあるが、この主人もまた幸いなのである。僕が自分を夜遅くまで心配して待っていたのか、と思うことは主人にとって幸いなのだ。主人が僕に給仕してくれる、というのは、主人もまたこの幸いを感謝しているしるしなのである。主イエスは、主人と僕とが、このような心の結びつきの中で、共に生きることができる、そのような関係を、持つことを私たちに願っているのである。
主イエスが再び来られるその時は、審判の時である。私たちが、神を真の神として礼拝してきたか、神の御心を行ってきたか、隣人を愛してきたか、が問われる時である。ヤコブの手紙4章15節に「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と語られているように、神の御心を行うことが私たちにとって第一のことである。私たちは、どのようにしたら主イエスを喜ばせることができるのか、そのことを念頭に望みを持って「再臨」を待つのである。