NEW! 2025.1.26 主日礼拝の案内

2025.1.26 主日礼拝の案内
 
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

(ヨハネによる福音書7章37節b)

 
主 日 礼 拝    午前  10:30

 
奏楽  板 垣 玲 子

<神の招き>

 
招 詞  ヘブライ人への手紙11章1節~3節

 
讃 詠  *546

 
罪の告白と赦し 詩編32編1節~5節

 
讃美歌 (Ⅱ)26

 
<神の言葉>

 
聖 書  ゼカリヤ書14章8節~9節 (旧約P. 1494)

ヨハネによる福音書7章37節~39節  (新約P. 179)

 
祈 り     森 﨑 千 恵

 
讃美歌  *270

 
説  教

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」

鈴木 美津子

<神への応答>

 
讃美歌  *238

 
使徒信条

 
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。

わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで

苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に

死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。

そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。

わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、

からだの復活、永遠のいのちを信じます。

アーメン。

 
公 告

 
献金感謝

 
主の祈り
天にまします我らの父よ、
 
願わくは御名をあがめさせたまえ
 
御国を来たらせたまえ。
 
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
 
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
 
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
 
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
 
アーメン
頌 栄   *541

 
派遣と祝福

 
後 奏

 
礼拝当番

(今週)安井 英子

(次週)松谷 信司

 
献金当番

(今週)青木 節子 白川 典子

(次週)森﨑 千恵 越智まり子

 
ライブ配信当番

(今週)松谷信司

(次週)新畑 信

 

NEW! 2025.1.27 ~2025.2.1 の集会案内

2025.1.27 ~2025.2.1 の集会案内

 
      集 会

 
〇日曜学校         9:00

 
〇定期総会(1階会堂)    12:00

 
〇第1回臨時小会      同上後

 
今 週 の 集 会
 
◎祈祷題 「教会の新しい歩みのために」

 
〇聖書の学びと祈りの会  1月30日(木)10:00

ダニエル書9章(担当 鈴木 美津子)司会 安 井 英 子

 
【牧師予定】
 
〇2月3日(月)マイノリティ宣教センター「つきいちひろば」

(ウェブ19:00〜)、運営員会(ウェブ会議20:00〜)

 
 
次  週  礼   
 
 説教「主イエスを巡る対立」 鈴木 美津子
ミカ書5章1節~3節

ヨハネによる福音書7章40節~52節

 
讃美歌       田 中   愛
(21)13、267、287、81、29 
 
日曜学校説教 「イザヤの召命」         
イザヤ書6章1節~8節      加 藤 純 子

NEW! 2025.1.26 週報教会のお知らせ

2025.1.26 週報教会のお知らせ
 
◇ウエストミンスター小教理問答 
問34 子とされることとは、何ですか。

答 子とされることも、神の一方的恵みによる決定です1。それに

よって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる

特権に権利を持つものになるのです2。

1 ヨハネ3:1      2 ヨハネ1:13、ローマ8:17

 
本日礼拝後、12:00~ 1階会堂において、定期総会を開催します。
 食事は各自済ませて、お集まりください。
 総会資料、讃美歌、筆記具をお持ちください。
 (乾燥しているため、水分補給もお忘れになりませんように)
 
◇菊池叔子さんのご主人が召されました。(82歳)

家族葬で行います。

主のお慰めをお祈り致します。

NEW! 2025.1.26 週報掲載の説教

2025.1.26 週報掲載の説教

<2024年12月15日説教から>

『主が来られる道を整える』

ルカによる福音書3章1節~6節

 
牧師 鈴木美津子

 
「イザヤ書」の文脈で読めば、荒れ野に備えられる主の道とは、バビロンの地からエルサレムへと至る道のことである。苦役の時が満ちたイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する。その民を導かれるのが主なる神である。それゆえ、バビロンからエルサレムへの道は、主が通られる道である。その主に先立って、伝令は進み、まっすぐで平らな主の道を備える。ルカ福音書が、ヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であると言うとき、それは心の有り様のことである。つまり、悔い改めるとは、主を迎えるために、曲がった心をまっすぐにし、でこぼこな心を平らにするのである。そのようにして、洗礼者ヨハネの後から来る主イエスを迎え入れるとき、人は皆、神の救いを見る。

 
「私よりも力のある方が来られる。その御方をお迎えする備えをせよ。そうすれば、あなたたちは皆、神の救いを見ることができる。罪の赦しを得ることができる」、と良き知らせをヨハネは告げる。このヨハネのメッセージは、主イエスが来られた後の時代に生きる私たちには関係がないのであろうか。そうではない。なぜなら、十字架の死から復活され、天に昇られた主イエスは、再びこの地上に来られるからだ。私たちは、主イエスの洗礼、聖霊による洗礼を受けて、罪の赦しを既に得ている。しかし、私たちは完全な救いにあずかっているわけではない。私たちの救いが完成されるのは、主イエスが、天から再び来られる日である。それゆえ、日々悔い改めて、主をお迎えするためにまっすぐで平らな心を備える必要があるのだ。

私たちは、主イエスを信じる者として、主の日の礼拝に集い、罪の赦しにあずかり、神の救いを見る。しかし、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰によることである。私たちは信仰によって、目に見えない方をまるで見えるかのように礼拝しているのだ。けれども、主イエスが天から再び来られる日に、私たちは、生きていれば栄光の体に変えられて、死んでいれば栄光の体に復活させられて、その目をもって、主イエスと父なる神を見ることになる。その日、その時、私たちは罪の支配から完全に解放された正しい者として、主イエスと父なる神を仰ぎ見て、礼拝をささげることになるのである。