2024.12.1 週報掲載の説教
<2024年10月6日の説教から>
『天から降って来た命のパン』
ヨハネによる福音書6章41節~59節
牧師 鈴木 美津子
ヨハネ福音書には、マタイやマルコ、あるいはルカ福音書に記されているような聖餐式制定の言葉はない。確かに、最後の晩餐の場面において聖餐式のことが全く触れられていない。けれども、ヨハネ福音書が記され、また、読まれていた当時の教会が、聖餐式を行っていなかったということを言っているのではない。なぜなら、キリストの教会は、誕生以来パン裂きを行って来たからである。当然、ヨハネ福音書もまた、主イエスが制定された聖餐式を前提として記され、読まれているのである。ヨハネ福音書は、主イエスが五千人以上の人々に食べ物を与えた奇跡の後、カファルナウムの会堂で、人々に教えられたことをここで改めて記すことによって、聖餐式の深い意味を明らかにしているのである。
56節と57節で、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる」と言われた。この言葉に現わされているのは、聖餐の持っている神秘的な恵みである。私たち自身が主イエスの中にいて、同時に主イエスが私たちの内にいてくださる。さらに、その主イエスは天の父なる神と一つであるから、私たちは主イエスを通して、天の父なる神ともしっかりと結ばれている、一つであるのだ。パンを食べること、杯を飲むことは、十字架の上で死なれた主イエスとの神秘的な結合である。これこそが聖餐式の恵みの中心なのである。
主イエスの肉、そして血を食べ飲むことは、十字架の上で主イエスが肉を裂かれ血を流された、その犠牲、その恵みと一つになること。そして、主イエスが、死んで葬られた後に復活されたように、信じる者もまた復活することがここではっきりと宣言されているのである。復活は、単に死から生き返るということだけではない。死に打ち勝ち、勝利し、主イエスの栄光に与るということである。主イエスの肉と血とに与ること、それは私たちの命そのものだからである。