2024.11.3 の週報掲載の説教
<2024年9月8日の説教から>
『わたしだ。恐れることはない』
ヨハネによる福音書6章16節~21節
牧師 鈴木美津子
ガリラヤ湖は、普段は穏やかな美しい湖であったが、時として深い谷から吹き下ろす強風のために天候が急変することで有名であった。この時も、夜、弟子たちがカファルナウムに向けて出発したときは、湖は穏やかであったが、その途上において、強い風が吹き、湖は荒れ始めた。弟子たちは、このとき死の危険、滅びの危険に直面していた。もし、舟が転覆してしまうようなことがあれば、彼らは溺れ死んでしまうからである。荒波を踏み砕かれ近づく主イエスは、恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」と言われた。「わたしだ」とは、「わたしである」とも訳すことができる言葉で、その昔、神がモーセに知らせた御自身の名前と重なるものである。
弟子たちは、高波を踏み砕かれる主イエスの姿に、神の御力を見た。そして、さらに主イエスの口から、「わたしはある」ということを言われた。そうであれば、これはもう恐れるしかない。人間が生ける神の前に立つとき、抱く感情は恐れである。しかし、主イエスは「恐れることはない」と言われた。なぜなら、主イエスが荒波を踏み砕くようにして弟子たちに近づいて来られたのは、彼らを飲み込もうとしていた死と滅びの力から彼らを救うためであったからである。弟子たちは、荒れ狂う湖での危機的状況においてこそ、真の主イエスの姿、高波を踏み砕かれ、「わたしはある」と言われる神の御子としての主イエスに出会うことができたのである。主イエスは、死と滅びの中にある弟子たちにこそ、御自分が神の御子であることを決定的な仕方で示されたのである。
その「彼らはイエスを迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。このことは、私たちに何を教えているのか。それは、主イエスを迎え入れようとする信仰に生きるとき、私たちは必ず目指す地に到達するということ。主イエスを、海の高波を踏み砕くお方、「わたしはある」と言われる神その方として迎え入れる信仰に生きるとき、私たちは死と滅びから救われ、必ず目指す地へ到達するのだ。では、私たちが目指す地とは一体どこであるのか。それは究極的には、主イエスがおられる天の国である。主イエスを神の御子と信じるとき、私たちは強い風と荒波から救われ、必ず天の国へ入ることができるのである。