2024.10.6 主日礼拝の案内

2024.10.6 主日礼拝の案内
 
週 報 80巻 40号 2024.10.6
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネによる福音書6章51節)

 
主 日 礼 拝   < 聖 餐 式 > 午前 10:30                                 
 
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
 
招 詞  テサロニケの信徒への手紙一5章16節~22節
 
16 いつも喜んでいなさい。 
17 絶えず祈りなさい。 
18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 
19 “霊”の火を消してはいけません。 
20 預言を軽んじてはいけません。 
21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 
22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
 
讃 詠   (21)28 みさかえあれや
みさかえあれや、 父と子と聖霊に、
はじめも今も とわにみかわらず、
み神に アーメン、アーメン。
罪の告白と赦し 詩編32編1節~5節
1【ダビデの詩。マスキール。】
いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2 いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3 わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4 御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。
 
 
讃美歌  (21)17   聖なる主の美しさと
(1)聖なる主の美しさと
   その栄えを 仰いで、
   まごころもて み前に立ち
   み名をたたえ、あがめよう。
(2)重荷すべて 主が代わって
   負ってくださる うれしさ。
   悩み多い 世の旅路も
   みちびく 主のみ恵み。
(3)心つくし 主に仕えよう。
   とるに足らぬ 私の
   愛のわざも、身も心も
   主は受け入れ、よろこぶ。
(4)闇をかえて 光とする
   主の恵みの 貴さ。
   望みは湧き、おそれは消え、
   胸に満ちる よろこび。
<神の言葉>
 
聖 書
 
出エジプト記16章1節~5節(旧約P.119)
1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。 
2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。 
3 イスラエルの人々は彼らに言った。
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
4 主はモーセに言われた。
「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 
5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
 
 
ヨハネによる福音書6章41節~59節   (新約P.176)
41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 
42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 
43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 
44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 
45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 
46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 
47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48 わたしは命のパンである。 
49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 
50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 
51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 
53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 
57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 
58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 
59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
 
祈 り                
 
讃美歌  (21)56  主よ、いのちの パンをさき
(1)主よ、いのちの パンをさき、
   あたえたまえ、 われらに。
   祈り求む ひたすら、
   主のいのちの みことば。
(2)ガリラヤにて 親しく
   パンを祝しし 主イェスよ。
   示したまえ、 われらに
   主のまことの みことば。
(3)主よ、いのちの 聖霊を
   送りたまえ、 われらに。
   語りたまえ みことば、
   見させたまえ みすがた。
 
説  教
 「天から降ってきた命のパン」 鈴木 美津子
 
 
<神への応答>
 
讃美歌  (21)458  信仰こそ旅路を
(1)信仰こそ旅路を みちびく杖、
   弱きを強むる 力なれば、
   こころ勇ましく 旅を続け行かん。
   恐るべきものは この世になし。
(2)わが主をかしらと 仰ぎ見れば、
   ちからの泉は 湧きて尽きず。
   恵みふかき主の み傷示されて
   わずかに残る火 ふたたび燃ゆ。
(3)主イェスの足跡 たどりゆけば、
   けわしき山路も 越え行くを得ん。
   疲るることなく、迷うこともなし、
   ひたすら御神へ 近づきゆかん。
(4)信仰こそわが身の 杖と頼まん、
   炎も剣も なにかはあらん。
   代々の聖徒らを 強く生かしたる
   いのちの聖霊 与えたまえ。
 
 
日本キリスト教会信仰の告白
わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、
真の神であり真の人です。
主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、
人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、
あがないをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え、
救いの完成される日までわたしたちのためにとりなしてくださいます。
 神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、
キリストにあって義と認められ功績なしに罪をゆるされ、
神の子とされます。また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、
信じる人を聖化し、御心を行わせてくださいます。
この三位一体なる神の恵みによらなければ、
人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません。
 旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、
主イエス・キリストを顕かに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です。
 教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わりであって、
主の委託により正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、
終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます。
 古代の教会は、聖書によって次のように信仰を告白しました。
わたしたちもまた使徒的信仰の伝統にしたがい、
讃美と感謝とをもってこれを共に告白します。
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。
わたしは、そのひとり子わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、
死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。
わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
 
 
聖餐式  (21)78  わが主よ、ここに集い
1.
わが主よ、ここに集い
したしくみ顔あおぎ、
わがすべて 主にゆだね
み恵みを待ち望む。
2.
主の糧 共に食し
杯 共に受けて、
わが心きよめられ
深き罪 あがなわる。
3.
わが主よ、主のほかには
助けも望みなし。
ただ主こそわが力、
祈りつつ 求めゆかん。
4.
わが罪、わが思いを
潔めし、主の血しおよ。
主の正義 身にまとい
恐れなく 進みゆかん。
 
 
公 告  
 
献金感謝 
 
主の祈り
天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
アーメン
 
 
頌 栄  (21)24  たたえよ、主の民
 たたえよ、主の民、
 みつかいと共に、
 恵みにあふれる
 父・子・聖霊を。
 
 
派遣と祝福
 
後 奏  
 
聖餐補佐 森崎 安井 三浦 増田
 
礼拝当番
(今週)松谷 信司

(次週)三浦 勇二

 
献金当番
(今週)野田 明子 菊池 淑子

(次週)安井 英子 鈴木 惠子

 
ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)新畑 信

 

2024.10.6~2024.10.12 の集会案内

2024.10.6~2024.10.12 の集会案内

 
      集 会

 
〇日曜学校             9:00

〇コイノニア            礼拝後

〇讃美歌を歌う会(どなたでも)   礼拝後

〇伝道委員会            礼拝後

 
今 週 の 集 会

 
◎祈祷題 「求道者のため」 「第74回大会のため」

(10月16日(水)~10月18日(金)

 
〇聖書の学びと祈りの会       10月10日(木) 10:00

エゼキエル書44章(担当 鈴木 美津子) 司会 伊木 美穂子

  次週、鈴木牧師が大会出席のため休会となります。

 
[牧師予定】

第74回大会 10月16日(水)~10月18日(金)

 
次 週 礼 拝 
 
説教   「永遠の命の言葉」       鈴木 美津子

ヨシュア記24章14節~28節

ヨハネによる福音書6章60節~71節

 
讃美歌    83 (1)、18、361、522、26   板  垣  玲  子

 
日曜学校説教 「金持ちの男」  鈴木 美津子

マルコによる福音書10章17節~22節

2024.10.6 週報教会のお知らせ

2024.10.6 週報教会のお知らせ

ウェストミンスター小教理問答
問19. 人が堕落した状態の悲惨とは、なんですか。

答 全人類は、堕落によって神との交わりを失いました1。今は神

の怒りとのろいの下にあり2、そのため、この世でのあらゆる悲惨

と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています3。

1 創世3:8、3:10、3:24

2 エペソ2:2~3、ガラテヤ3:10

3 哀3:39、ローマ6:23、マタイ25:41、25:46

 
◇日曜学校バッジの注文を10月13日まで受け付けております。

詳細は掲示板に。        (担当 加藤純子)

 
◇第74回大会 10月16日(水)~10月18日(金)

正議員 牧師鈴木美津子 長老安井英子 補員 森崎千恵

前日手伝い 済陽高志  16日(水)投票補助 菊地晴子

 
◇教会主催日帰りバス旅行は、申込を締め切りました。

NEW! 2024.10.6 の週報掲載の説教

2024.10.6 の週報掲載の説教

<2024年8月18日説教から>

『聖書は主イエスを証しするものです』
       ヨハネによる福音書531節〜40
牧師 鈴木美津子

 
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(39)」
ユダヤ人たちは、聖書そのものの中に永遠の命があると考えて、聖書の一言一句を研究していた。聖書そのものの中に永遠の命があるのだから、聖書を研究し、それを現在に当てはめて、そこに従って生きるとき、永遠の命に生きることができると彼らは考えていたのだ。そうであれば、聖書を研究しているユダヤ人たちが、誰よりも先に、聖書が証しする主イエスを信じてもよさそうであるが、現実はそうはならなかった。ユダヤ人たちは命を得るために主イエスのところへ来ようとしないからである。なぜか。それは、聖書に取り組む姿勢そのものが間違っていたからだ。「聖書の中に永遠の命があるのではない。聖書が証しするお方である主イエス・キリストの内に永遠の命がある。」からだ。聖書を主イエスを証しする書物として読むこと。これこそが主イエスが教えてくださった正しい聖書の読み方である。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、どれも旧約聖書を経典の一つに持っている。けれども、その読み方はまったく異なる。キリストの教会は、旧約聖書をイエス・キリストを証しする書物として、読む。それが正しい旧約聖書の読み方だからである。なぜ、そのように言えるか。それは主イエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光の体へと復活されたお方であるからだ。主イエスが、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われるとき、それは何より主イエス御自身が、旧約聖書をそのように読まれたことを教えている。主イエス御自身が、旧約聖書を御自分について証しする書物として読み、苦難を通して栄光へと入るメシアとして歩まれた。そして、神が主イエス・キリストを三日目に復活させられたことは、主イエスの読み方が正しいものであったことを証ししている。さらに言えば、主イエスが正しく聖書を読み解くことができたことは、主イエスが聖書の究極的な著者である神、その方であることを証ししているである。

私たちは「イエス・キリストは主である」と告白し、神を「アッバ、父よ」と叫び祈ることのできる「神の子」とされ、聖霊の導きのもとに、聖書を、イエス・キリストを証しする書物として、さらにはイエス・キリストの御言葉として読むことができる。