2024.9.8 の週報掲載の説教

2024.9.8 の週報掲載の説教

<2024年7月21日の説教から>

      『起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい』
ヨハネによる福音書5章1節~9節

牧師 鈴木 美津子

主イエスは、ユダヤの祭りの日に、エルサレムに再び上られ、ベトザタという名前の池に行かれた。この池には、38年間病気で苦しんでいる人が横たわっていた。主イエスは、その人の今までの苦しみや悲しみややるせなさ、長い長い苦しみの歴史の全部を知り、理解して下さり、その人に「良くなりたいか」と言われた。

主イエスは、人々から見捨てられてしまったと思えるようなこの人に、目を注いで下さった。そして、この人の苦しみの歴史の全部を知って下さった。その上で主イエスは、本当に驚くべき仕方で癒しの御業をなさった。願うことが出来ない人、希望がもてない人、信仰があるとは到底言えないようなこの人に向かって主イエスは、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい!」とお命じになったのである。こうして主イエスは、自分が救われることなど考えてもみなかったこの人に向かって、突然、救いを差し出して下さった。この人は、ほんの少し、「起きあがろう!」と思うだけでよかったのだ。それだけで彼は良くなり、床を担いで歩きだした。

私たちは、主イエスの救いの恵みの中に、このような側面があることをよく知っているのではないか。主イエスの十字架のことである。私たちが罪の赦しを願い、信じたので、主イエスが十字架について下さったわけではない。私たちが全く願わなかった時に、即ち自分の罪が赦されるという可能性さえ知らなかった時に、あるいは自分に永遠の命が与えられることすら知らなかった時に、既に主イエスは十字架について下さったのだ。そして、この救いを全てご自分で備えてくださった上で、突然、「起きあがりなさい!新しく生きるように!」と私たちに差し出して下さった。ただ私たちは、ほんの少し足に力を入れるだけで良いのだ。救われたいと願い、信じるだけで良いのである。ただ、それだけで私たちは、主イエスが準備して下さったこの救いの全てにあずかることが出来る。深い深い神の愛の中、自分の罪が全て赦されている平安を味わいながら、永遠の命に生きる希望を携えて、約束の地へと歩むことが出来るのである。