2024.9.1 の週報掲載の説教

2024.9.1 の週報掲載の説教

<2024年7月14日の説教から>

『主イエスの言葉を信じる』
ヨハネによる福音書4章43節~54節

牧師 鈴木 美津子

ガリラヤのカナにカファルナウムの町から、一人の王の役人がわざわざ主イエスを訪れた。カファルナウムからカナまでは直線でおよそ30キロ。彼はその道のりを越えて、主イエスに会いにやってきた。彼の息子が、死にかけるほどの病気であったからだ。

彼は、主イエスにカファルナウムまで下って来て、息子をいやして欲しいと訴えた。しかし、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(48)」と、冷たい反応をされた。しかし彼はあきらめない。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください(49)」と、しつこく食い下がる。そこで主イエスのほうが、彼の熱意に負けたのか、あるいは彼の中に、何かしら、他のユダヤ人とは違う信仰のかけらを見て取られたか、「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50)」という言葉をかけられた。しかし、この言葉は、この王の役人を戸惑わせたことであろう。彼が願ったことは、主イエスを連れ帰って、いやしていただくことであったからだ。そのことは拒否されたが、主イエスは「あなたの息子は生きる」と宣言をされた。つまり主イエスは、彼がこの時、主イエスの救いの宣言だけを聞いて、その言葉を信じるかどうかを問われたのである。彼はこの時「見ないで信じる信仰」へと促されたのだ。そして彼は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
彼は、帰る途中で、息子の病気がよくなったことを知らされた。そしてその時刻を尋ねると、主イエスが「あなたの息子は生きる」と宣言されたのと同じ時刻であった。

大事なことは、彼はしるしを見て信じたのではなく、見ないまま、言葉を聞いて信じた、その結果として、「息子が生きる」というしるしを与えられたということである。確かに、しるしは信仰をもってみて、しるしとしての意味を持つ。信仰をもってでなければ、しるしをしるしとして見抜くことすらできないからだ。この王の役人は見ないで信じた結果、それをしるしとして見ることができた。

主イエスこそが、私たちを本当に生かすことのできる、命の主である。そして、私たちにも、「あなたは生きる」と言ってくださる。根本的に人間をたちあがらせ、頑張る力を内側から与えるのは「あなたは生きる」という主イエスの言葉だけである。十字架の死から復活された主イエスの命の言葉だけが私たちを真に生かすことができるのである。