2024.8.4 の週報掲載の説教

2024.8.4 の週報掲載の説教

<2024年6月16日の説教から>

「永遠の命に至る水」

ヨハネによる福音書4章1節~15節

牧師 鈴木美津子

主イエスがサマリアの町を通られたのは、そこに必然的な理由があった。ただ、その理由が何であったかは記されていない。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないことになっていたので、わざわざそのようなところを通って、ユダヤからガリラヤに向かう必然性は普通には考えられない。けれども、ユダヤ人たちから見れば呪われたようなサマリアに、主イエスはわざわざ立ち寄られたのである。

サマリアの地に罪に悩む一人の女性がいた。その女性を主イエスは、シカルの「ヤコブの井戸」のほとりで待っておられた。そして、彼女に水を求めた。しかし、主イエスがこの女性に水を求めたのは、話のきっかけを得るため、井戸の水をきっかけに、永遠の命に至る水のことを語るためである。しかも、ユダヤ人からすれば救いとはおよそ無関係と思われるサマリア人の、しかも、罪深いと噂される女性を相手に語ったのである。

主イエスにとって、永遠の命に至る水を必要としているのは、ユダヤ人ばかりではない。罪の中にいるすべての人がそうであるからだ。私たちの心が決して渇くことがなくなる道は、わたしたちの心の中心に主イエスをお迎えすることである。主イエスは、私たちの罪の赦しのための神の贈り物。私たちの、いいようのない不安、恐れ、空しさの源である私たちの罪を解決し、覆って下さるお方である。このお方は、神の子であるにもかかわらず、私たちの代わりに、十字架にかかり、神の裁きを受け、私たちが味わう全ての暗黒と苦悩をすべて引き受けて下さった。そのお方が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(14)」と、言われる。このことは真実である。主イエスが下さる特別の水、救いの水、命の水を受けるならば、その人の内からも永遠の命に至る水が湧き出る。その水は、人の目には見ることはできない。しかし、主イエスを受け入れた人からは、必ず流れ出るのである。主イエスは、わたしたちに決して渇くことのない命の水を与えてくださる。ここで主イエスが語られたのは礼拝のことである。霊と真理をもって捧げる礼拝、その中心に生きた水である主イエスご自身がおられると言われたのである。

今や、ユダヤとサマリアの壁を超えて、一人のサマリアの女性は、主イエスに生きた水をくださいと願う者とされた。主イエスが出会ってくださったからである。