2024.7.14 の週報掲載の説教

2024.7.14 の週報掲載の説教

<2024年5月26日の説教から>

「喜びに満たされる」
ヨハネによる福音書3章22節~30節

牧師 鈴木 美津子

 
天から与えられなければ、人は何も受けることができない(27)」とは、具体的には「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(30)」ということである。「ねばならない」とは、神のご計画の必然をあらわす言葉である。ギリシア語の原文では、この「ねばならない」は、「あの方は栄え」に掛かっている。ヨハネが言いたいことは「主イエスが栄えること、主イエスの御名によって多くの人に洗礼が授けられること、それが神のご計画である」ということである。そのために、自分は、あの方こそメシアであると証ししてきた。今、その役目を終えようとしている。そうして衰えていくのが自分の定めであるとヨハネは言うのである。ヨハネの言葉は、何だかもの悲しい言葉のように聞こえるが、決してそうではない。その直前に、「わたしは喜びで満たされている」とあるように、彼は、大きな喜びに満たされているのだ。

なぜ、彼は喜びに満たされて、このような言葉を語る事ができるのか。彼はその理由を、自分と主イエス、そして救いに与る人々を結婚式の花婿と介添え人そして花嫁に例えて語る。ユダヤの習慣では、花婿には花婿の親しい友人が介添え人となった。結婚式の当日、介添え人は、花婿のために花嫁を迎えに行く。花嫁の姿を見た花婿が喜ぶ声を聞いて、介添人も喜ぶのである。この例えが意味することは、花婿である主イエスのもとに花嫁である人々が集い、洗礼を受け、介添え人であるヨハネは花婿の喜びの声を聞いて、その友人の心が喜びで満たされるように、大きな喜びに溢れる。しかし、「介添え人」は、あくまで主役である「花婿」の引き立て役である。決して目立ってはならない。それが洗礼者ヨハネの役割であり、それでも彼は「大いに喜ぶ」のである。「大いに喜ぶ」を直訳すると「喜びに喜ぶ」となる。さらに、「喜びで満たされている」とは、喜びが、外にあふれ出し零れてしまっている状態のことである。もはや、言葉で言い表すことが困難な喜び、想像を絶する喜び、これが、引き立て役に徹してきた洗礼者ヨハネに今与えられている喜びなのである。そして、これこそが主イエスを証するために用いられる者に与えられる喜びなのである。