2024.6.30 の週報掲載の説教

2024.6.30 の週報掲載の説教

<2024年5月5日の説教から>

「新しく生まれ変わる」
ヨハネによる福音書3章1節~15節

牧師 鈴木 美津子

 
ニコデモはユダヤ人であり、ファリサイ派に属する議員であった。ある夜、彼は人目を避けるように夜の闇に紛れて、主イエスのもとを訪ねた。彼は主イエスを「神から来られた方」だと言った。ニコデモは主イエスが為された奇跡や癒しの業を見たので、主イエスから「どうやったら神の国に入ることができるのか。救われるのか。」その教えを請おうとしてやってきたのである。ニコデモからすれば、信仰とは、特別な天の知識を得ることであったのだ。

主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」言われた。これに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えた。ニコデモは主イエスの言葉の意味を全く理解していなかった。なぜなら、ニコデモは人が「変わる」ということを、自分の力、自分の努力によって変わると捉えていたからである。それに対して、主イエスは「神の力によって変わる」と言っているのである。
人が、信じる者になる(変わる)、というのは、確かに自分の意志で、自分で決断して信じることである。しかしそうであるから、信じるということが不確かなことのようにも思われる。自分の意志や決断は必ずしもその後に及んで維持できるかどうかはわからないからである。しかし、主イエスが教えられるのは、神の思い、神の意志があって、主なる神が「霊」を注いでくださることによって、信じる者となる、ということである。そこに、私たちが信じることの確かさがあるのだ。

私たちが「永遠の命を得る」ということは、「神の国を見る」、あるいは「神の国に入る」ということである。それは、この地上の命では、ニコデモも考えたようにできないことなのである。

ニコデモが、この時、どのように受けとめたかは、これ以上記されていないのでわからない。しかし後にアリマタヤのヨセフと共にピラトに申しでて、十字架で息を引き取られた主イエスの遺体を引き取り、墓に納めている。それは、ニコデモが主イエスの弟子であることを公にすることでもある。主イエスが十字架に上げられるに及んで、主イエスが言われていたことが確かなことであり、十字架において「人の子が上げられる」確かな「しるし」であることをニコデモは理解したのである。