2023.5.7 の週報掲載の説教

2023.5.7 の週報掲載の説教
<2023年3月19日の説教から>

『目に見えないものを待ち望む』

ローマの信徒への手紙8章18-25節

牧 師 鈴木美津子

 
私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶ聖霊を与えられて、神の子とされているが、完全に神の子とされているわけではない。と言うのも、私たちの内には、未だ肉の思いがあり、聖霊の導きに完全に従ってはいないからである。それゆえ、私たちは体が贖われること、キリストと同じ霊の体に変えられることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのである。「霊の体」とは、コリント一の15章で、パウロが用いている言葉で、聖霊の導きに完全に従うことができる体という意味である。キリストを信じる私たちは、キリストが栄光の主として再び来られる日に、霊の体に復活させられる。それは聖霊に完全に支配されている体である。そして、そのときこそ、私たちは神の御心に完全に従う神の子とされる。

今は、私たちには肉の思いがあるので、聖霊に完全に従うことはできない。その肉との戦いは、まさに、私たちの心に神の子とされること、体が贖われることを待ち望むうめきを生じさせる。しかし、それこそが、私たちを救う希望である。この希望は、信仰と一体的な関係にある。なぜなら、信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することであるからだ。私たちは、イエス・キリストが栄光の主として来られる日に、イエス・キリストと同じ姿で復活させられる。そのとき、私たちは神の御心に完全に適う神の子とされる。このことは、パウロが語るように、目に見えない希望である。やがて、イエス・キリストが再び来られる日に、私たちの体が贖われ、神の子とされる。そして、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになる。そこには、もはや、呪われるものは何一つない。それは、まさしく誰も見たことのない世界である。しかし、その目に見えないものを、私たちは信仰によって待ち望んでいる。だから、天の国を受け継ぐ保証である霊の初穂をいただいている者として、忍耐して待ち望むのである。