2023.5.28 の週報掲載の説教
<2023年4月2日の説教から>
『覆すことのできない神の恵み』
ローマの信徒への手紙8章31~34節
牧 師 鈴木 美津子
この手紙を書き送っているパウロは、当時の公の裁判制度の下で幾度となく訴えられている人物である。その被告人である彼が、なぜ誰にはばかることなく「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう(33a)」、などと言えるか。それは「人を義としてくださるのは神(33b)」のゆえである。パウロは三度に及ぶ伝道旅行中に苦心して集めた献金をささげるために帰ったエルサレムで、逮捕された。その後、彼は殉教の死が与えられるまで囚人という立場で生活した。この世的には被告人、囚人、それがパウロの最終的な身分であった。その現実の中で、「人を義としてくださるのは神」であることを真実に証したのがパウロであった。
彼は、先にローマの教会にこの手紙を書き送った数年後ローマの地に囚人として上陸した。その彼の姿は、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう(33)」の正反対であった。しかし、訴えられて、囚人として連行されても尚十字架の福音を雄々しく語り続けた彼の姿ほど「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」との御言葉を雄弁に証したものはない。神が味方である以上、惨めな一人の囚人には、万軍の主が共におられるからである。囚人としてローマに上陸したこの伝道者のみすぼらしい姿は、ローマのキリスト者にどれだけの勇気を与えたであろうか。「神に選ばれた者たち」であるキリスト教徒が、何時訴えられても不思議ではない暗黒の時代の先駆けに、パウロは訴えられても、殉教しても尚、「人を義としてくださるのは神」であるという信仰を一歩も譲らないことで、この御言葉の真理を証したのである。
「だれがわたしたちに敵対できますか(31)」、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう(33)」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう(34)」と「だれが」という言葉が繰り返されるが、これは、この世において、だれも私たちに敵対しないとか、だれも訴えたりしないとか、だれも私たちを罪に定めるようなことなどしない、ということではない。むしろだれでも、私たちの敵となりうる。それどころか、「だれがわたしたちに敵対できますか」と御言葉が語られる只中で、私たちは、信仰者に敵対する勢力に囲まれている、これが現実である。しかし、その現実の中で尚「だれがわたしたちに敵対できますか」と賛美することがキリスト教信仰ではないだろうか。