2022.4.17 の週報掲載の説教
<2022年4月10日の説教から>
『十字架への道』
ヨハネによる福音書18章1節~14節
教師 鈴木 美津子
主イエスは、最後の晩餐の後、弟子たちを引き連れて、祈るためにいつもの園に向かった。しかし、それは祈るためだけではなく、主自ら、逮捕されるためにいつもの園に向かったのである。当然、裏切り者のユダもこの園の存在と主イエスたちの行動を承知していた。主イエスは、ご自分の逮捕という出来事において、ユダの裏切りの計画が実現しやすいように、あえてこの場所を選ばれたのだ。つまり主は、敵対者に不本意な形で逮捕されたのではなく、自らが、主導権を持って彼らに自分の身を渡され、逮捕させたのである。これがヨハネ福音書の主イエス逮捕の出来事についての解釈である。
主イエス逮捕の時が迫った。裏切り者のユダを先頭に祭司長、ファリサイ派が遣わした下役たち、600名ほどのローマの一隊の兵士という多勢が、手に手に松明と武器を持つという物々しさ。主イエス自ら、彼らに進み出て「だれを捜しているのか」と尋ねた。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えた。主イエスはそれに「わたしである」(8節)と答えた。「わたしである」という言葉に、捕らえ手たちは耐えられず、後ずさりし、地に倒れた。「わたしである」とは、旧約聖書のモーセの物語で、モーセの前に現れた主なる神がご自分を彼に紹介する言葉である。罪人である人間はそのままでは神に近づくことなどできない。人間とって畏るべき言葉、倒れ伏すか、悪くすれば命を失う言葉である。逮捕する側には何の力もなかった。力があったのはご自身を「わたしである」と語ることができる主イエスのみ。
しかし、力ある主イエスは無抵抗で逮捕された。いや、逮捕させたのである。ペトロが大祭司の手下の右耳を切り落とすというハプニングはあったが、その後、無力な弟子たちは主イエスの前から逃げ出してしまう。しかし、それも弟子たちを守るためのご計画であり、弟子たちはやがて主イエスに従う道を選び、自分の命を省みず、福音を述べ伝える者となるのである。彼らが変えられたのは、自分たちを守ってくださる方が主イエスであることを理解し、真に信頼することができたからだ。彼らは、自分の命さえ惜しまない道を歩むことを選んだ。
主イエス逮捕の重く苦しい出来事さえも、主イエスの力の素晴らしさ、その主に信頼することが信仰の戦いの中で悩み苦しむわたしたちに与えられた真の道であることを聖書は教えている。