2019.10.27 週報の礼拝案内

週 報 74432019. 10.27
こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

主 日 礼 拝  午前 10:30
【宗教改革記念日礼拝】
奏楽  板 垣 玲 子

 <神の招き>
招 詞  イザヤ書57章15節

*讃 詠  545a

*罪の告白と赦し 交読詩編147編15節~18節

*讃美歌  72

 
<神の言葉>
聖 書 詩編119編105節~107節   (旧約P.964)

ペトロの手紙二 1章12節~21節    (新約P.436)

祈 り                伊木 美穂子

*讃美歌  Ⅱ161〔1-3〕

説  教 「明けの明星があなたの心に昇るまで」    三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌  517

*十 戒

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  540

*派遣と祝福

*後 奏

 
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は

お座りのままでどうぞ。

 
礼拝当番(今週)森崎、野田、大嶋、岡野

(次週)加藤純、島口、小川澄、越智

 
掃除当番(今週)済陽、森崎、國久、新畑

鈴木惠、小出勝、武政み

(次週)深沢、阿部、岡野、松沢

小出和、室橋、

 
*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.10.27 週報掲載のお知らせ

次 週 礼 拝   2019.11.3

< 聖 餐 式 >

説教「義の道を知っている者」     三 輪 地 塩

箴言26章11節~12節

ペテロの手紙二 2章1節~22節

讃美歌(21)83、3[1-3]、352、378、79、46   岩 本 道 子

日曜学校説教「希望の人生に旅立とう」  岩 本 道 子

使徒言行録7章1節~16節

 
【大森講座のお知らせ】

日時・場所 11月17日(日)14:00~17:00 大森教会

主題 教会政治の神学 ―改革派の教会政治原理とは―

講師 吉岡(よしおか)契(けい)典(すけ)(日本キリスト改革派 板宿教会牧師)

 
◇昨年同様クリスマスのお菓子の献品を募ります。

賞味期限が2020年1月末までのものをお願いします。

 
◇福音時報の購読の申込み封筒を配布致しました。封筒に

購読料を入れ、11月17日までにお申込みください。

この機会に新しい方もご購読ください。(担当 國見照子)

 
【おはなし会のお知らせ】

11月17日(日)13:00~13:30 南浦和教会

語り手:国岡晶子(銀座教文館ナルニア国お話し会チーフ)

2019.10.27~11.2 今週の集会

      集 会

〇日曜学校                 9:00

〇「教会員の生活」による学びの会      9:15

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入門の会(担当 三浦勇二)         9:45

〇クワイア練習                礼 拝 後

〇コイノニア                礼 拝 後

〇日曜学校教師会              礼 拝 後

今 週 の 集 会

◎祈祷題「日本軍『慰安婦』問題と取り組む会

主催の集会のため」(11月4日)

〇聖書の学びと祈りの会      31日(木)10:00

歴代誌10章 (担当 三輪地塩) 司会 吉田 さとみ

〇聖書の学びと祈りの会    31日(木)14:00

ヘブライ書7章1節~10節     担当 岡 野 庸 子

2019.10.27 週報掲載の説教

<2019年3月10日説教から>

『最後の晩餐』 
マルコによる福音書14章22節~26節

牧師 三輪地塩

イエスが十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」での出来事。イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と発言し、弟子たちはショックを受けた。彼らは代わる代わる「まさか、わたしのことでは」と言い始めた。この弟子たちの姿勢は悪くない。なぜなら、「それは私ではありません」ではなく「それは私かもしれません」と言っているからである。人は罪を犯す。それが前提である。どんな立派な人間であっても、どんなに社会的地位が高くても、「聖人」と呼ばれるような者であっても、みんな罪人である。それ故に、「まさか私のことでは」と尋ねる姿勢は正しい。

この衝撃発言の後でも、イエスは晩餐を続け、これが十字架前の最後の晩餐となったのである。我々の礼拝においても、次の言葉は聖餐式でお馴染みである。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。この言葉は重要だ。キリストの十字架の血が、個人の罪ではなく「多く人の罪のために流されたものである」と書かれているからである。ユダは明らかな「裏切り者」のレッテルを貼られる人物になったが、この罪をユダのみに着せることはできない。我々の内に「ユダ性」が秘められており、「ユダ的に」罪を犯す可能性から目を背けてはならない。ユダは我々人間界の彼岸に存在するのではなく、まったく我々と同じ此岸の存在である。それは、他の弟子たちが、それぞれの仕方でイエスを裏切った事にも示される。例えばマルコ福音書14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあり、続く51節には「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。とある。また同14章71節には「するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなた方の言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とある。ユダ以外の弟子たちもイエスを裏切っている。それは我々人間全ての姿だ。そこに言い訳も弁明も釈明もできない。我々に残されている行為は、この罪を赦し得るのは、「多くの人の罪のために流された」「キリストの十字架以外にない」と告白することのみである。