2019.8.4の礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30

< 聖 餐 式 >

奏楽   板 垣 玲 子

<神の招き>

招 詞  ローマの信徒への手紙12章17節~18節

*讃 詠  546

*罪の告白と赦し 交読詩編144編12節~15節

*讃美歌  56(1-3)

<神の言葉>

聖 書 イザヤ書53章7節~10節  (旧約P.1150)

ペトロの手紙一 2章18節~25節(新約P.431)

祈 り

*讃美歌  269

説  教「キリストの受けた傷によって」三 輪 地塩

<神への応答>

*讃美歌  298

*日本キリスト教会信仰の告白

聖餐式  205

公 告

*献金感謝 (21)575      クワイア

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  539

*派遣と祝福

*後 奏

聖餐補佐  松谷、三浦、増田、森﨑

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は

お座りのままでどうぞ。

礼拝当番(今週)増田、岩本、志賀洋、鈴木惠

(次週)松谷、新畑、武政み、武政明

 
掃除当番(今週)入江、増田、塩澤、岩本

吉田耕、吉田さ、武政明

(次週)菊地晴、松本、浜田、佐藤真

加藤ヨ、板垣、草野

*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.8.4のお知らせ

次 週 礼 拝

<平和記念礼拝・こどもとおとなの合同礼拝>

説教「死を超えて共にいてくださる方」  三 輪 地 塩

詩編113編1節~3節

ルカによる福音書20章27節~40節

讃美歌 545A、58、529、531、540    三 輪 志 都

【牧師予定】
〇牧師夏期休暇(前半) 8月5日(月)~10日(土)

◇三輪地塩牧師夏期休暇中の緊急の場合の連絡は書記に

お願いします。

森﨑千恵  増田裕子

◇8月11日(日) 平和記念礼拝午後の予定

①かき氷大会は礼拝後直ぐに1階で行います。

おとなのみ¥100です。

②13:30~「平和記念コンサート」

出演:コ-ロ・アンジェルス  入場無料

*ご家族・友人・知人をお誘いのうえ、どちらもご自由にご参加ください。

*昼食は各自でお済ませ下さい。

*当日、年3回行っている「あしなが育英基金」への

募金を行います。ご協力お願いいたします。

2019.8.4~8.9今週の集会

〇日曜学校                 9:00

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入会準備会                9:00

〇入門の会(担当 休会)           9:45

〇クワイア練習                9:45

〇コイノニア                礼 拝 後

〇定期小会                12:45

今 週 の 集 会

◎祈祷題「平和記念礼拝・コンサートのため」(8月11日)

〇聖書の学びと祈りの会は午前・午後とも

718()~912()まで休会です

牧師予定】
〇牧師夏期休暇(前半) 8月5日(月)~10日(土)

2019.8.4 週報掲載の説教

<2019年1月13日の説教から>

『ダビデの子』

マルコによる福音書12章35節~37節

牧師 三輪地塩

紀元前600年~500年頃から、「メシアはダビデの末裔から生まれる」という「メシア待望」がユダヤ教の中で生まれた。ユダヤ人たちはメシアの到来を待ち望んでいた。イエスの時代、ユダヤ人たちはローマの圧政を受ける中で、強いメシア、解放者、戦う救世主の到来を願っていた。ダビデのように、南と北を統治し、統一王国を作るほどのリーダーの資質を持った者であり、戦闘民族ペリシテ人の「身長3メートルのゴリアト」を、投石一撃で倒してしまった、あの武勲に長けた人物。それが、民衆の望むメシアの姿であった。

しかしイエスは、今日の箇所で「どうしてメシアがダビデの子なのか」と、否定的に語る。それは、この時のユダヤ人たちが、単に「英雄」を求めていたからに他ならない。

エイブラハム・リンカンを英雄として信じる者たちは、リンカンを神と同じと考え、神格化されたリンカン像を待望するわけです(そこにバラク・オバマがリンカンを彷彿とさせる仕方で登場し、当時の米国は熱狂した)。

当時のユダヤ人たちは、イエスに対し、自分たちの勝手な「英雄像」を当て嵌めて「神格化」したのである。イエス・キリストを神格化した、というのは言葉の矛盾ではあるが、しかし、「神格化されたダビデ」を当て嵌めて「イエスを神と呼んでいる」ところが問題なのである。

旧約聖書の「サムエル記」は、ダビデを神格化することを殊更に嫌い、彼を徹頭徹尾「罪ある」「間違いを犯す」「人間」として描くことを是としている。ダビデは立派な王であったのは事実かもしれないが、結局人間の域を超えることのできない弱い人間でしかなかった。しかしユダヤの人々は、彼を英雄視しすぎてしまい、過剰な期待を込めて、到来するメシアが「ダビデの子」であると信じ込んでしまっていたのだ。そのためイエスは言うのである。「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。

イエスが、明らかに「父なる神の独り子であった」ということは、英雄であったからではない。最も端的に、そして目に見える仕方で、「神の愛」を示されたからに他ならない。彼はダビデのような武勲はない。領土を広げることに心血を注いだのでもない。彼は十字架の上で「神の独り子」であることを証しした。人を殺めて英雄になるのではなく、人に殺められて、神の子であることを証しした「真の人にして、真の神」であった。