<10月28日の説教から>
『腰掛をひっくり返す』
マルコによる福音書11章12節~19節
牧師 三輪地塩
イエスは神殿を「強盗の巣」と批判し、堕落した宗教祭儀を嘆いている。「両替商」とは、神殿にお金を納めるための「両替」である。当時ユダヤ地方の通貨は、ローマの貨幣が使われていたが、神殿に納めるためには「ユダヤの通貨」に両替してから献げねばならなかった。問題は、その両替レートがあまりにも法外なものだったことにある。
もう一つは「鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した」のである。当時鳩は、犠牲獣として売られていた。聖書には「焼き尽くす捧げ物」と呼ばれる屠るための犠牲獣が出てくる。牛や羊よりも手頃な鳩は重宝された。だが、この鳩が法外な値段で取引されていただ。今でも有名観光地では客の足下を見るように土産品や特産物は高いものである。この神殿では神への捧げ物にこの市場原理を用いていたということである。
更に、これは推測でしかないが、「犠牲獣」と言いながら、実は「焼き尽くさず」こっそり裏道から生きて戻されて、また売られた、という事も十分に考えられる。
つまり、神殿そのものが、宗教ビジネスの巨大な装置として金のなる木としてのシステムが出来上がっていたと言える。まさに、宗教界の「白い巨塔」さながらの宗教ビジネスに、司祭やレビ人のような神殿祭儀を勤めとする宗教者たちも関与し、その利権の恩恵にあずかっていた、と考えられるのだ。
主イエスは、その歩みの中で、多くの苦しむ者、排除された者、病に塞ぎ込む者、生きる力を無くした者、神の祝福に預かれない罪人たちの隣人になってきた。外国人、身体障害を持つ者、子どもたちといった礼拝に預かれないと思われて来た人々を積極的に神の下に引き入れたのであった。しかし、その救いのシンボルであるはずの神殿が、彼らを排除し、むさぼり、詐欺まがいの行為を行っているとすれば、そこは既に神の家ではなく、強盗の巣そのものである、とイエスは言うのである。「怒るイエス」の姿は、我々のイエスのイメージにはあまり馴染まないかもしれないが、その怒りの裏には、イエスの深い愛があるのだ。