2019.6.2のお知らせ  

【「聖書・教理の公開講座」ご案内】東京中会
71()19002030 鶴見教会
テーマ:新約聖書・その他の書簡と黙示録 住谷 眞牧師
72()19002030 鶴見教会
テーマ:教理・終末論
【辺野古新基地建設反対スタディツアー】
日時:201971()3()名護市のホテルの2
内容:キャンプシュワブの抗議活動に参加、大浦湾視察、
   沖縄伝道所伝道祈祷会、講演会など。
◇先週26()9:00 地域の清掃奉仕を有志3人で行い
ました。
 

2018.10.28 説教

                <1028日の説教から>
                『腰掛をひっくり返す
             マルコによる福音書1112節~19
                                 牧師 三輪地塩
 イエスは神殿を「強盗の巣」と批判し、堕落した宗教祭儀を嘆いている。「両替商」とは、神殿にお金を納めるための「両替」である。当時ユダヤ地方の通貨は、ローマの貨幣が使われていたが、神殿に納めるためには「ユダヤの通貨」に両替してから献げねばならなかった。問題は、その両替レートがあまりにも法外なものだったことにある。
 
 もう一つは「鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した」のである。当時鳩は、犠牲獣として売られていた。聖書には「焼き尽くす捧げ物」と呼ばれる屠るための犠牲獣が出てくる。牛や羊よりも手頃な鳩は重宝された。だが、この鳩が法外な値段で取引されていただ。今でも有名観光地では客の足下を見るように土産品や特産物は高いものである。この神殿では神への捧げ物にこの市場原理を用いていたということである。
 更に、これは推測でしかないが、「犠牲獣」と言いながら、実は「焼き尽くさず」こっそり裏道から生きて戻されて、また売られた、という事も十分に考えられる。
 つまり、神殿そのものが、宗教ビジネスの巨大な装置として金のなる木としてのシステムが出来上がっていたと言える。まさに、宗教界の「白い巨塔」さながらの宗教ビジネスに、司祭やレビ人のような神殿祭儀を勤めとする宗教者たちも関与し、その利権の恩恵にあずかっていた、と考えられるのだ。
 主イエスは、その歩みの中で、多くの苦しむ者、排除された者、病に塞ぎ込む者、生きる力を無くした者、神の祝福に預かれない罪人たちの隣人になってきた。外国人、身体障害を持つ者、子どもたちといった礼拝に預かれないと思われて来た人々を積極的に神の下に引き入れたのであった。しかし、その救いのシンボルであるはずの神殿が、彼らを排除し、むさぼり、詐欺まがいの行為を行っているとすれば、そこは既に神の家ではなく、強盗の巣そのものである、とイエスは言うのである。「怒るイエス」の姿は、我々のイエスのイメージにはあまり馴染まないかもしれないが、その怒りの裏には、イエスの深い愛があるのだ。

2019.06.02~09 今週の集会

今 週 の 集 会  
 
祈祷題「ペンテコステ合同礼拝のため69
聖書の学びと祈りの会         6日()10:00
  歴代誌上28章(担当 三輪地塩)     司会
生と死の学び            6日()
(「泉への招待」P.222232三浦綾子著) 担当

聖書の学びと祈りの会             6日()14:00

  使徒言行録171節~9節      担当

牧師予定】
立教大学講義 4()、聖学院大学講義 5日(水)

2019.06.02 礼拝予定

 

                                                                                                                                  
主 日 礼 拝  午前 10:30
 

奏楽   

 
                     <神の招き>
招 詞  ローマの信徒への手紙121
*讃 詠  (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編140914
*讃美歌  (21)3 [1-3]
 
<神の言葉> 
聖 書 詩編167節〜11   (旧約P. 846
   マルコによる福音書161節~8
                (新約P.97                         

祈 り              森                                                                                                                                                                                                                                                                                       

*讃美歌  (21)57
  教 「イエスの復活」     
                 

                                          
            

<神への応答>
*讃美歌  (21)575
*使徒信条
 公 告 
*献金感謝             
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏            
 
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。

 

礼拝当番(今週)伊木、小出勝、青木、板垣

    (次週)増田、菊地、入江、大嶋

 

掃除当番今週)済陽、森、國久、新畑
        鈴木、小出勝、武政み
(次週)深沢、阿部、岡野、松沢
    小出和、室橋
 
礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください

2018.10.24 説教

  
              <1014日の説教から>
         『ホサナ。主の名によって来られる方に』
          マルコによる福音書111節~11
                           牧師 三輪地塩
 イエスはエルサレムに入城するための準備の場面。「二人が子ロバを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた」。おそらく王の戴冠式をモチーフにしているのであろう。当時の各国の王はこのようにして国に凱旋していた。
 「馬に乗らずロバに乗る」という行為は、イエスのへりくだりを示している。そしてロバにはもう一つの意味がある。当時ロバは決して蔑まれていた動物ではなく、柔和で力のある動物として好まれていたようであった。そのためロバは「平和の象徴である」と言われていたのである。つまりイエスは、「へりくだり」と「平和」を携えてエルサレムに入ってきたのだ。暴動を起こそうとしていたわけでも、革命を起こそうとしていたわけでもない。本来の「神の国の福音」を伝えるため、信仰の中心地であるエルサレムに来たのである。
 イエスを大歓迎で迎えた人々は歓喜の声を上げ「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という。「ホサナ」は「救ってください」という意味である。歓喜の声を上げた人々は、イエスが自分たちを救うメシアである事を直感していた。
 皮肉にも、大歓迎の民衆を含むであろう「全ての人」が、イエスの十字架を阻止できなかった。「その時」が来たら、12弟子は逃げ出し、民衆もバラバを釈放し、イエスを十字架につけることを求めた。
神の独り子イエス・キリストは、その死において、へりくだりの主であり、平和の主であることを、誰の目にも明らかに分かるように示された。
我々はイエスに従う者たちであると同時に、裏切る罪をも孕む二律背反的な者たちであるこの二心を持つ我々は、高ぶらず、へりくだりる、平和の主に対して、何をすべきなのであろうか。信仰者一人ひとりにかかっている。