2018年9月23日の説教
<先週の説教から>
「主が望まれるもの」
ルカによる福音書10章38節~42節
教師 吉平真理(雲雀ケ丘伝道所) まだ会ったこともないイエスさまとその一行を「迎え入れる」決断をしたのは、姉のマルタの方でした。それは食事だけでなく、身の回りの世話をし、自分の家を福音宣教のために提供することに現れていました。マルタは、そのように神の国の福音を伝えるイエスさまと弟子たちを迎え、その働きを支える大切な役割を自ら担ったのです。マルタをこの「もてなし」(ディアコニア)に突き動かしたのは、自分も神の国の到来を知った喜びに根ざした自発性でした。「奉仕」とは、主の教会を建て上げるために賜物を用いて、自発的に感謝をもって主にお仕えすることです。その評価は、どのような時、どのような場面においても、何が一番大切かをご存じの主がなさいます。本当に良い事は、主だけがご存じだからす。
マルタはせわしく立ち働き、もてなしながら『多くのこと』をあれこれ悩み、思いわずらっていました。イエスさまをお迎えした喜びは「精一杯もてなさなければ」という義務感や責任感に変わり、その負荷が大きくなるにつれ、初めにあった彼女の自発性は失われていきます。「私はやっているのに、何故、あの人は一緒にやらないのか」。いつの間にか自分を「正しい者」の位置に置いて、自分と同じように動かない他者への苛立ちを募らせるす。
『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。』「多くのこと」を考えて、思いわずらうマルタに、主は「ただ一つ」のことに思いを向けようとされます。主はマルタを思いやって、「良い」もの、本当に必要とされる「一つ」のことを、教え
てくださるのです。主がマルタに望んでおられたことは何でしょうか。
それは、いかなる時も、イエスさまの語られる福音の「恵みに生き、仕える」という「喜び」を失わないで欲しい、ということです。律法を全うしようとする思いに向かうのではなく、神の国の到来による主の恵みを知ることです。自由にされ、喜んで、自発的に生きてほしい。そうなるために必要な「ただ一つ」を教えて下さっているのです。
それが、イエスさまのみ言葉に、期待をもって聞き入ることなのです。