<3月25日の説教から>
『少女はすぐに起き上がった』
マルコによる福音書5章21節~43節
牧師 三輪地塩
ヤイロは、ユダヤ教の指導者「会堂長」であり、人々から尊敬を受けていた人物である。ヤイロは自分の娘が瀕死の状態であったことをイエスに伝えると、共に自宅に急いだ。そこへヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という悲報が伝えられたのであった。
娘の癒しを願っていたヤイロは、その死を悼みつつ、全てが終わったと諦めた。いくら主イエスであっても、無理なことがある。そう思った事だろう。
だがイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、かまわずヤイロの家に向かった。ヤイロの家で泣き叫ぶ者たちに対し、イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と語る。これを聞いた者たちは「イエスをあざ笑った」。娘の死を嘆く、ヤイロの娘の近しい人たちや関係者があざ笑ったと考えられる。
このあざ笑いは、我々が常識に囚われる事によって、神の業を信じる事ができない様子を表わしている。
イエスは「皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入っ」た。そして「子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われ」たのであった。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味のこの言葉。「少女はすぐに起き上がって、歩きだした」のであった。この少女は「もう12歳になっていたから」とあるのは、単に12歳という年齢を伝えたいだけでなく、この「生き返りの命の完全さ」を表わしている。
真の命にあずからせる主イエスについて「人々は驚きのあまり我を忘れた」とあるが、我々は、このことを主の復活の時に知る事となる。あの婦人たちが、空虚な墓を目にしたとき、あまりの衝撃に我を忘れる、という出来事にも繋がっており、そこには我々の常識が神の奇跡によって覆され、神の業が我々に迫ってくるものとなる。