その他・集会案内

◇西日本豪雨災害支援募金は本日(8/5)まで受付けます。
お志のある方はご協力お願い致します。

受付に募金箱があります。

 
◇【一日神学校のご案内
期日:924日(月・休)10301600 
場所:日本キリスト教会神学校
*参加費は無料です。
*プログラムなど詳細は掲示版をご覧ください。
831日までにFAX049-233-7039)で神学校に
お申込みください。
 

2018.03.04 説教から

   <34日の説教から>
            『風を叱る』
        マルコによる福音書435節~41
                       牧師 三輪地塩
 
 舟に乗っていたのは、ガリラヤ湖の“専門家”である漁師出身のペトロたちであった。その彼らが恐れおののくほどの嵐が吹いのだから、かなりの暴風であったのだろう。彼らは怯えた。「死んでしまうかもしれない」「何とかしなければ」、そう思った弟子たちはイエスに目を向けた。「しかしイエスは舟の艫の方で枕をして眠っておられた」のであった。悠長に眠っているイエスを見た弟子たちは、イエスの存在に安心するどころか、「苛立った」のであった。彼らは「イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った」のである。
 この弟子たちの苛立ちは、我々が日常の中で、「あたかも神がいないかのように毎日を過ごしてしまっていることへの悔い改めを促すだろう。もしガリラヤ湖が平穏で安心に航行できる状態であったら、イエスの眠りを妨げることはなかっただろう。或いは、寝ている事にすら気付かなかったかもしれない。そして「平穏であること」「安心して航行できること」への感謝を忘れて歩んでしまうのである。
だが、ひとたび大嵐が来ると、安らかに眠っているイエスを叩き起こし、自分たちが窮地に立たされている事に怒りを覚え、その原因をイエスに向けてぶつけるのである。この姿は、我々に似ている。平穏の中では神を忘れるのに、困難になると突然神に八つ当たりしてしまう私たち。安心できる時には神が何をなされようとしているのか考えもしないが、ひとたび自分に被害が生じると、神を恨み、神に怒りを発するのだ。我々の信仰が、何とも脆く、躓きやすいものであるかを、この箇所は弟子たちを通して我々に伝えている。
このような我々人間の不安と恐怖に対し、イエスは悠然と起き上がり嵐を静めた。風はやみ、高波は凪になった。自然を従わせるイエスの姿を見て、弟子たちは恐れおののく。嵐と波の力に恐れおののいていた彼らは、それ以上の力を見て神に畏れおののいた。神が共に(艫に)おられるのであれば、我々にはもはや「安心」しかない

2018.08.05~11 今週の集会

  
  今 週 の 集 会
 
祈祷題「平和記念礼拝のため」(812日)
 
聖書の学びと祈りの会は午前・午後とも
726()913()まで休会です。

2018.08.05礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
<世界の教会を覚える日>
奏楽 
 
招 詞  イザヤ書24
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編10816
*讃美歌  (21)7[1-2]
 
<神の言葉>
聖 書 イザヤ書816節~23 (旧約P.1073
マルコによる福音書942節~50

                       新約P.80                         

祈 り               
                                                                                                                                                                                                                                                   

*讃美歌 (21)494

   「自分自身のうちに塩を持ちなさい」 

 三 輪地 塩

                                                       
<神への応答>

*讃美歌 (21)519

*日本キリスト教会信仰の告白
 聖餐式  (21)79
 公 告 

*献金感謝(21)515     クワイア

*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏  

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お願い 
◇西日本豪雨災害支援募金は85日まで受付けます。お志の
ある方は宜しくお願い致します。受付に募金箱があります。

2017.02.25 説教から

       <225日の説教から>
             『「成長」について考える』
           マルコによる福音書426節~34
                     牧師 三輪地塩
 
 イエスは、神の国を「からし種」に譬える。「小さなからし種は蒔かれる時は小さいけれども、蒔かれるとどんな野菜よりも大きくなり、鳥が巣をつくるほどにも成長する」。その成長の中に神の国があるのだ、と語る。
 からし種は直径1mmほどの小さな粒である。古代イスラエルの人たちは、これが最も小さな種である事をよく知っていた。イエスは身近な例を挙げて、神の国を説明しようとしているのであった。
 
 からし種は、何倍にも成長する。肥沃な土地に蒔かれれば、高さ3メートルほどにもなる。何も期待できないと思えるほどの「小ささ」が、「誰も予測できなかったほどの大きさになる」。その驚くべき対照が、神の国の譬えであるとイエスは言う。
 勿論、小さければ小さいほど重宝される物もあるが、通常、「小さい」という事は、あまり積極的な事柄と捉えず、「力の弱さ」「足りなさ」をイメージしてしまう。しかし、例え小ささの中にあったとしても、我々は神の大きな力の中にある事をいやというほど知らされるのだ。
 聖書の歴史でそれは明らかである。小さなダビデが大きなゴリアトを倒したこと。イスラエルという国自体が、その数の少なさと貧弱さの故に神に選ばれたこと。ベツレヘムという「小さな村で」クリスマスが起こったこと。小さな子どもの持つ「五つのパンと二匹の魚」という小ささから、5000人を養ったことなど、聖書には多くの箇所で、神の前に小さな人間に与えられる大きな出来事が語られる。