<2月4日の説教から>
『神の御心を行なう人こそ』
マルコによる福音書3章20節~35節
牧師 三輪地塩
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」とある。「身内の人」とはイエスの母と兄弟たちである。イエスは神の言葉を伝えていたが、身内の者たちには、それが恥かしく思えたのだ。イエスは「大工」であり、ユダヤ教の神学的エリート教育を受けたわけではない。ただ「神のひとり子」という以外には。この「大工イエス」が、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で聖書の話をしているのは、母の目には「気が触れてしまった」と映ったのである。イエスの母や兄弟たちは、イエスがあらぬ批判を受けさせないためだったかもしれない。もしそうなら、イエスへの愛のゆえに(会堂での話を)やめさせようとした、ということになる。
だが、それは本当に「愛」と言えるのか。もしかすると、親自身のメンツを保つための「偽の愛」「愛に似たもの」でしか無かったのではなかろうか。
「愛」か「親のメンツか」という問題は、非常に境目の見極めが難しい。「この子のためにやっている」と語る親は多いが、実は「その子」は口実であり、子が親の自己実現の道具にされることも少なくないように思う。そうなると子は親の「所有物」でしかなくなってしまう。
或いは、その親の愛が「本当の愛」だったとしても、親族・血縁関係というものは、愛が深いがゆえに、諸刃の剣となってしまう。本来必要なことは何か、その思いを曇らせることに繋がってしまいます。
今日の主イエスの態度を見て、ある「愛情深い人たち」は、イエスの冷たい(ように感じる)言葉に憤慨するが、なぜ母たちがイエスの行っていることを妨げようとしているのかを見なければならない。この場面でイエスの母たちは、自分たちの意思の実現を要求しているのである。恥ずかしいという思いや、みっともないという感情によって、彼女たちはイエスの言葉を(神の言葉を)遮ろうとしているのである。主にある兄弟姉妹、とは、神の言葉によって成り立つ兄弟姉妹のことである。