2018.04.29~05.05

 
 今 週 の 集 会

 

祈祷題「平和憲法を覚えて
                (憲法記念日53日)

    「日曜学校のため」(日曜学校日55日)

聖書の学びと祈りの会   3日()10:00         

  列王記下15章 (担当 三輪地塩) 
                   司会伊木 美穂子

聖書の学びと祈りの会   3日()14:00

  テトスへの手紙4章     担当 大月 美智子

「教会と国家に関する公開協議会」 
                   4日()13:30

 

2017.11.26の説教から

   
    <1126日の説教から>
        『子よ、あなたの罪は赦される』
  マルコによる福音書140節~45
                       牧師 三輪地塩
「中風」とは、脳卒中などによって、手足のマヒが生じた状態、半身不随の状態を言う。この中風患者と、彼を連れてきた4人の仲間たちの物語は大変面白い。中風の男は、床から起き上がれる状態ではなく、床ごと担がれてイエスのもとに連れて来られ、イエスとの出会いが「屋根を剥がす」という強硬手段によって行われた。この4人はリスクを顧みずに中風の患者を治らせたい一心で連れてきたのだ。我々はこの4人の「信仰におけるファインプレー」であると言えるだろう。
だが一方で違う見方も可能だ。この中風の男が一言も言葉を発していないことから、病気の本人が、特に治癒される事を求めていなかったと考えることも出来る。とするならば、この4人の行為は単なるお節介を焼いたということになろう。治りたいと思っていない人に対する押し付けがましい行為であると。
我々がこの箇所で読み取りたいのは、この4人の男たち(おそらく中風患者の「友人」と思われる4人)が、なぜイエスのところに彼を連れてきたのか、ということにある。4人が中風患者の治癒を求めていたにせよ、患者自身が癒やされたいと思っていなかったにせよ、いずれにしても「4人」は、「患者」を「イエスに会わせた」という事がこの箇所で行われた出来事(行為)である。
ひょっとすると中風の患者は「生きることを諦めていた」のかもしれない。もう治らない、もう生きる価値はない、もう生きていても仕方が無い、と。そうであるならば、この4人の最大のファインプレーは、「イエスに「会わせた」」ということ自体にある。つまり「こちら側(人間の側)が何をしてほしい」という一方的な願いではなく、「イエスを知ること」「イエスと出会うこと」「イエスに相まみえること」こそが、「我々の生きる意味」そのものである、という神の捉え方である。
かつて16世紀欧州の神学者は「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか?」という問いをした。それに対する答えは、私が私自身のものではなく、~真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えている。神の恵みとは、我々の願望が叶う事にはなく、神の主権を求めることにある。

2018.04.29 礼拝予定

   

主 日 礼 拝  午前 10:30

 

                         奏楽 

 

招 詞  ヨブ記1925

*讃 詠   545A

*罪の告白と赦し 交読詩編861417

*讃美歌  19

 

<神の言葉>

聖 書 詩編10723節~32節(旧約P.948

マルコによる福音書645節~56                                                  

新約P.73

祈 り               安 井 国 雄                                                                                                                                                                                                                                              *讃美歌 307

   「湖の上を歩く」


                 三 輪 地 塩

                                                       

<神への応答>

 

*讃美歌 324

*使徒信条

 公 告 

*献金感謝  

*主の祈り (座席前そなえつけ)  

*頌 栄  543

*派遣と祝福

後 奏 

㋊19日の説教から

       <11月19日の説教から>
         『よろしい。清くなれ』
     マルコによる福音書1章40節~45節
                      牧師 三輪地塩
  
 “重い皮膚病”に苦しむ男性が登場する。彼はイエスに
向かって「御心ならば、わたしを清くすることがおできに
なります」と願った。これは見事な信仰告白である。つま
り彼は「もし御心でなければ治らない」という事を承知し
ていたということだ。人は自分の願いを優先しがちである
が、彼は神の支配・計画を優先して、自らの願いを求めて
いるのである。現代に生きる我々にとってもこれは重要で
ある「毎日祈り続けたが願いが叶わなかったので信仰を
棄てる」という事があったとすれば、優先順位が神にでは
なく人にある。苦しい時にこそ、「神の最善」を祈り得る
ときこそ幸いである。「悲しむ人々は、幸いである。その
人たちは慰められる」(マタイ5章4節)にある通り。
 この重い皮膚病を患った彼は、人間が神に対して、何も
要求できない事を知っていた。それは神の全能性に対する
謙虚な告白であった。「ひざまずく」という姿勢は礼拝を
表す。主の前にひれ伏し、主の前に頭を垂れる。これに対
してイエスは憐れんだ。「イエスが深く憐れんで、、手を差
し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ
ると、たちまち思い皮膚病は去り、その人は清くなった」
とある。主は言葉をかける。イエスの癒し(救い)は、
その「言葉」にある。
 主イエスの言葉によって、彼の病気は「清くなった」。
40節から42節の中に「清くなる」という語が3回出てく
る。最初は「清くというすることがおできになります」という「仮
定法」。この仮定法によって「未来への可能性」が示され
る。次の「よろしい。清くなれ」と言う「命令法」によっ
「癒しの現実」「神の言葉の現実」が示される。最後の
「その人は清くなった」という「断定法」によって、「神
の言葉による結果」としての「神の恵み」が示される。我々
キリスト者の信仰はここに立脚したい。「神の可能性を信
じ、神の言葉を聞き、神がもたらして下さる恵みを受ける」
のである。そのとき我々は清くされ、新しい命、新しい歩
を踏み出して行くものとなる。

2018.04.22~28 今週の集会

           今 週 の 集 会
祈祷題「青年のため」
第5回大会事務所・神学校建物検討委員会
               (名東教会)24日(火)10:00
大戸集会(志賀洋子宅)  25日(水)13:30
聖書の学びと祈りの会   26日(木)10:00
 列王記下14章(担当 三輪 地塩)  
                     司会 板垣 玲子
聖書の学びと祈りの会   26日(木)14:00
 ミカ書4章               担当 岡野 庸子