<11月19日の説教から>
『よろしい。清くなれ』
マルコによる福音書1章40節~45節
牧師 三輪地塩
“重い皮膚病”に苦しむ男性が登場する。彼はイエスに
向かって「御心ならば、わたしを清くすることがおできに
なります」と願った。これは見事な信仰告白である。つま
り彼は「もし御心でなければ治らない」という事を承知し
ていたということだ。人は自分の願いを優先しがちである
が、彼は神の支配・計画を優先して、自らの願いを求めて
いるのである。現代に生きる我々にとってもこれは重要で
ある。「毎日祈り続けたが願いが叶わなかったので信仰を
棄てる」という事があったとすれば、優先順位が神にでは
なく人にある。苦しい時にこそ、「神の最善」を祈り得る
ときこそ幸いである。「悲しむ人々は、幸いである。その
人たちは慰められる」(マタイ5章4節)にある通り。
この重い皮膚病を患った彼は、人間が神に対して、何も
要求できない事を知っていた。それは神の全能性に対する
謙虚な告白であった。「ひざまずく」という姿勢は礼拝を
表す。主の前にひれ伏し、主の前に頭を垂れる。これに対
してイエスは憐れんだ。「イエスが深く憐れんで、、手を差
し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ
ると、たちまち思い皮膚病は去り、その人は清くなった」
とある。主は言葉をかける。イエスの癒し(救い)は、
その「言葉」にある。
主イエスの言葉によって、彼の病気は「清くなった」。
40節から42節の中に「清くなる」という語が3回出てく
る。最初は「清くというすることがおできになります」という「仮
定法」。この仮定法によって「未来への可能性」が示され
る。次の「よろしい。清くなれ」と言う「命令法」によっ
て「癒しの現実」「神の言葉の現実」が示される。最後の
「その人は清くなった」という「断定法」によって、「神
の言葉による結果」としての「神の恵み」が示される。我々
キリスト者の信仰はここに立脚したい。「神の可能性を信
じ、神の言葉を聞き、神がもたらして下さる恵みを受ける」
のである。そのとき我々は清くされ、新しい命、新しい歩
を踏み出して行くものとなる。