<10月8日の説教から>
『四人の漁師』
マルコによる福音書1章16節~20節
牧師 三輪地塩
彼らは魚を獲る漁師だった。網を繕い、海へ投げ入れ、魚を獲り、市場で売って生計を立てていた。ペトロ、アンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟がそれであった。同じように主イエスの召しを受けた彼らであったが、それぞれ生活 レベルが異なっていたと思われる。ペトロとアンデレがガリラヤ湖畔で投げ網漁を行なっていたのに対し、ヤコブとヨハネは舟を所有し、湖上で漁を行なっていたのである。更に「ゼベダイを雇い人たちと一緒に」とある通り、彼らの家には雇い人がいた。つまりゼベダイの家は、比較的裕福な(中流階級的)生活をしていた事が分かる。
だが、主イエスが召し集めたのは「社会的階級の上の者から下の者へ」という順序ではなかった。主イエスの伝えようとしている神の国の福音が、この世の価値観を超えるものであったからである。ここに神の「自由な選び」、「神の主権による召し」が示されている。
イエスの時代、一般的なユダヤ教のラビたちは、師匠が自らの手で弟子を召し集めることはなかった。むしろ、弟子たちの方から弟子入りを希望し、師匠に認められた者だけが弟子になったと言われる。これに対し、イエスは自ら出向き、イエス自身が弟子を集めているのである。イエスが弟子を集めた目的は何であろうか。それは「人間を獲る漁師にする」こと、つまり「主の御言葉を宣べ伝える者とする」ことにある。その務めを彼ら4人は主イエスから委託されたのだ。
この務めは現在のこの教会に委託された業であり、我々一人ひとりに委ねられていると言えよう。我々は12使徒ではないが、主イエスに福音の伝道が任せられた「イエスの弟子たち」であり、この教会は、その業を行使する為に建てられている。伝道することは教会の力である。伝道の根拠が、主イエスの委託にあるからである。我々がしたいから伝道をする、という内的な促しを超えて、イエス自らが我々を呼び集めているこの教会が、伝道する意欲と活力を失ってはならない。聖書はそう伝えている。