2017.08.06の説教から

<2017.08.06の説教から>      
『二人の女性ーエポディアとシンティケ』
フィリピの信徒への手紙4章2節~3節
牧師  三輪地塩
 
 エポディアとシンティケ。聖書のここだけにしか出てこないこの二人の女性は、当時のキリスト教界では特に有名ではなかったが、フィリピ教会設立に重要な働きをした奉仕者たちであった。
恐らくヒィリピ教会の(現在で言うところの)役員のような女性たちと思われる。
 
 このエポディアとシンティケは何らかの理由で対立しており、それは単なる痴話喧嘩などではなく、教会の中心的立場にある女性同士の意見の相違と思われる。その事は教会を大きく混乱させた。
 
 このフィリピ教会の状況に対してパウロは、エポディアとシンティケの両者のどちらかをを糾弾する事もなく、又、論争自体を仲裁するつもりもないらしい。これは大変興味深いことである。彼は「真実の協力者よ」と呼びかけ、この二人の女性たちを「支えて欲しい」と願っている。裏を返せば、パウロは論争の内容に興味を持っていないのだ。心を向けているのは、彼女たちの心が折れてしまい、福音から離れてしまわないことであり、彼女たちへのフォローである。

 そもそも「論争」が起きる時、その殆どにおいて、「感情論」に陥ることが多い。その際気を付けなければならないのは、論争している「内容」から大きく離れ、それまで溜まりに溜まっていた鬱憤を、感情的に爆発させてしまうことである。エポディアの目指す教会の姿と、シンティケの目指す教会の姿に違いがあったとしても、それは何とか妥協点を見つけることが出来るし、折衝の余地はある。だが、感情的に相手を糾弾し、憎しみが広がった場合、そこに解決を見出すのは容易ではない。パウロが最も気遣っているのは、そのことであろう。つまり「教会は人間の集まる場所である」ということ。更に言うならば「教会は、罪深き人たちの集まる場所」であり「その罪人たちは、キリストによってのみ「罪赦されたと見做される者たち」である」のである。

 どうして教会員たち同士の仲たがいの只中に、真実の教会が経ち得ようか。人を憎む場所に、神の愛が与えられようか。パウロはその事を述べているのである。

2017.12..31~2018.01.06 今週の集会

2017.12.31~2018.01.06
今週の集会

祈祷題「新しい年を迎えて」

会計監査   1月6日(土)13:30

聖書の学びと祈りの会は午前・午後ともやすみです。
  初週祈祷会及び「生と死の学び」(『泉への招待』
  三浦綾子著)は1月11日(木)に行います。

2017.12.31礼拝予定

2017.12.31
        主日礼拝  午前10:30
                    奏楽  田端誠治
 招詞    マラキ書3章1節
*讃詠    546
*罪の告白と赦し  交読詩編6編1節~10節
*讃美歌  1

<神の言葉>
 聖書    イザヤ書58章3節~8節(旧約P.1156)
        マルコによる福音書2章18節~22節
                       (新約P.64)
 祈り                    安井国雄
*讃美歌  499
 
 説教{新しいぶどう酒は新しい革袋に」 
                        三輪地塩

<神への応答>
*讃美歌  501
*十戒
 公告 
*献金感謝
*主の祈り
*頌栄    540 
*派遣と祝福
*後奏