<6月18日の説教から>
『互いに謙虚であれ』
フィリピの信徒への手紙2章1節~5節
牧師 三輪地塩
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(2:1)。ここに「神、御子、聖霊」の三位一体が表わされている。三位一体の神とは「父、御子、聖霊の神が、その存在において孤独ではなく、互いに愛の交わりの中に生きて働かれる神である」ことを意味している。また「神が三位一体の中で、他の何者をも必要とせず、人間の手を借りず、人間の側からのフォローなしに存在し得る神である」という事でもある。「三位一体」という教理は知っているが、自分の信仰生活とはあまり関係ない、と考える人も少なくないかもしれないが、そうではない。神が三位一体の神であることは「神ご自身がそれ自身で成り立ち、他の何者の介在を受けることなく、誰の助けも必要とせずに存在する神である」ということ、つまり「神の主権の中に神が生きており、神の主権の中に我々が生きていること」を信じさせる神なのである。
我々は、国民主権や基本的人権などが確証された国家に生きている。だが国家や共同体は、人間の思惑・利益・思想などによって、如何なる姿にも変容し、変質し、歪曲され、不義が生まれてしまう共同体にもなり得るのである。国民主権など言いながら、国民の生活を管理と監視の目で脅かし、治安維持のためになら何でもしかねない。国家という共同体はその実情では、国民主権ではなく「国家主権」「国家の利益主権」で動くのである。国家にとっては「国家の利益」が「善」であり、そのためには、小さな人間の命や生活権は少々奪われても構わないと考える。それが巨大な構造悪ともなり得る「国家」である。当然権力者が人間である故にミスリードもしばしば起こる。
しかし、我々の信じる神において、主権者が三位一体なる神であると語りうる時、そこには人間が介在しうる余地は無いのである。神自身が、父・御子・聖霊の働きによってこの世を創造し、この世を愛された。三位一体なる神が主権者であるということは、我々自身が、孤独ではなく、それぞれの価値を否定されず、個々の命を大事に愛される神と共に生きる、ということを示すのである。