2017.10.01週報
<5月28日の説教から>
『生きるとはキリストである。』
フィリピの信徒への手紙1章19節~26節
牧師 三輪地塩
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ここで言葉を重ねて「喜びます」と語るパウロであるが、最初の「喜んでいます」は「過去」に対する喜びであり、2番目の「これからも喜びます」は「将来」「未来」に向けての喜びを意味している。一見すると当たり前のように思われるが、パウロはこのとき監禁されていた事を知れば、この言葉に驚きを覚えるだろう。その苦しむ状況の中で将来を見据えているのだ。例え自分が苦しんでいたとしても、そこにキリストがおり、そこでキリストが語られ、そこにキリストの香りが漂うのであるならば、それはキリストの喜ばれる福音宣教の前進であるから、自分の体が苦しみ痛んだとしてもそれは問題の無いことだ、と彼は言う。
パウロはこの時「生きることと死ぬことの間の板挟み」の中にあった。「生きることはキリストであり、死ぬことは利益である」(1:21)との言葉は、彼が苦難を終えたいという思いを示しているのかもしれない。彼の心は崩れかけていた。現代的には「抑鬱状態」であるだろう。かなり落ち込み、気力を失っていた。
だが彼は、命への希望を失ったわけではなかった。それは「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」という異様な言葉から明らかである。普通の人ならば、例えば冤罪などによって裁判の被告席に立たされたとき、「私は刑に処されて死ぬべきか、無罪放免で釈放されるべきか、どちらが良いのか私には分かりません」などと述べることはないだろう。生殺与奪の権利は裁判官あるいは陪審員の手の中にあるからである。裁判とは自分の命を自分で決める事が出来ないものである。
しかしパウロは「どちらが良いのか・・・」と、あたかもその権利を自分が持っているかのように語っている。だが、ここがパウロなのであった。つまり、彼の信仰は、神主導、神主体の信仰である。つまり裁判官の手中にある命を生きているのではなく、神によって生かされた命を歩んでいるという自己認識の中にあったのだ。彼は罪を犯して投獄されたわけではない。しかしその最大の苦しみの場でさえも、神中心の歩みを捨てることがなかったのである。