2017年度東京中会女性部修養会のご案内

   【2017年度東京中会女性部修養会のご案内】
日 程:11 7日(火)袋井愛野めぐみ教会 
      1123日(木・休)小山教会

テーマ:「わたしたちの礼拝」

講 師:真田 泉
     (東京主僕教会牧師・神学校礼拝学講師)
93日(日)までにお申込ください。
            (担当 浜田弘子)

2017.08.27~09.02今週の集会

2017.08.27~09.02
今 週 の 集 会
祈祷題「日曜学校・朝カフェのため」(振起日を覚えて)
聖書の学びと祈り会は、、午前・午後とも休会です。

2017.05.14の説教から

514日の説教から>
『知る力と見抜く力』
    フィリピの信徒への手紙13節~11
                牧師 三輪地塩
 
「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」
 
パウロは感謝と共にフィリピ書を語り出す。だが、いくら良い関係が築かれていたとしても何らかの問題を抱えているはずである。実際フィリピ教会は幾つかの問題を抱えていた。フィリピ教会は我々の教会と同じく「完成しつつある過渡期にある教会」なのであった。
 
パウロはこの時、恐らく肉体的に弱っていたと思われる。ここには「監禁されているときも・・・」とある通り、彼はエフェソでローマの官憲に拘束され、牢に入れられていたと考えられている。「福音を弁明し立証する」というのは、裁判や尋問を受けたことを示唆している。このときパウロは苦しく、体の痛みを覚えていた。心も痛み、憂鬱だった。だがそのパウロは「私の神に感謝し」と、「神への感謝」を述べている。
 
我々は人間的な思いではなかなか感謝できない者たちだ。聖書は「感謝」を「信仰の出来事」と捉えている。「真の感謝」は、「神を讃美すること」であり「神を告白すること」でもある。我々が利益を受けたから感謝し、不利益を受けたから感謝しない、という次元ではない。感謝は「人間同士の事柄」に留まらず、神を告白し、神を讃美する、という意味を含んでいる。神への感謝は、自分の気分次第で行うものではなく、神への信仰告白としての感謝、讃美としての感謝が成立するのである。
 
それは礼拝の出来事に繋がっている。礼拝は、御言葉の語られるところであると同時に「讃美する場所」であり、「信仰告白する場所」である。そこには神への感謝が捧げられるのである。具体的な捧げ物や、祈りとして感謝が捧げられる。絶えず神をほめたたえる生活。それこそが感謝の生活である。パウロが苦境に立たされても感謝できたのはそのためである。神を礼拝し、神への信仰を表す事から、私たちの神への感謝の生活が始まる。
 
 
 

2017.08.20~26 今週の集会

2017.08.20~26
今 週 の 集 会
祈祷題「為政者のために」
「全国青年の集い」準備会 (柏木) 
                  26日(土)11:00~18:00

聖書の学びと祈り会は、午前・午後とも休会です

2017.04.23の説教から

  

  

    <423日の説教から>

    『わたしを愛しているか』

ヨハネによる福音書2115節~19

            牧師 三輪地塩

エスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言った。この質問と応答は3度繰り返される。

 

サムエル記上3章では、祭司エリのもとに居たサムエルが、主に3度呼ばれ、4度目に主の呼び掛けである事に気付く。神から特別な務めが与えられる召命の場面として語られる。だがイエスとペトロとの3度のやり取りは、召命を受けている場面のように感じない。何故ならペトロが「悲しくなった」と言われているからである。「そんなに同じことを何度も聞かなくてもいいのに・・・。という思いになっているように読み取る事も出来る。

 子供の時分、親から「宿題やったの?明日の準備はしたの?」とクドクド言われ、何と信頼されていないのか、と悲しくなった経験を持つ人も少なくないと思う。「出来ていない自分」に気付かされ、それを何度も指摘されるからこそ「悲しむ」のである。ペトロもそうなのかもしれない。

 だが、ここでの3度の問い掛けは、単に「本当にわたしを愛しているのか?本当なのか?」、という念押しではなく、まして、ペトロを信用していないから尋ねているのでもない。ここにはペトロの三度の否みの出来事が想起される。ペトロは十字架の前日、大祭司邸の庭でイエスとの関係を否定し、「違う」「知らない」「聞いたこともない」と、否定に否定を重ねたのであった。

 しかし、復活の主イエスは、3度拒否したペトロに対し、3度愛の確認をしている。これはペトロの犯した罪に対する挽回の機会とも言える。彼は汚名返上の機会を与えられ、「違う」「知らない」「そんな人は聞いたこともない」という拒否の言葉自体を「主を愛する」という3度の言葉で打ち消しているようである。

 罪深かったペトロが、もう一度主を愛する者とされる「回復の出来事」がここにある。我々は回復されるのだ。罪を犯した事は残る。だが「赦された者」と「見做されて生きることが出来る」それこそがキリストの福音である 

2017.08.27主日礼拝

 2017.08.27        
 
 
 
 
 
 
                                                                                                                                  
主 日 礼 拝  午前 10:30
 
奏楽 田
 
<神の招き> 
 
招 詞  イザヤ書5719節 
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編5112節~19
*讃美歌  (21)18〔12
 
<神の言葉>
 
聖 書 イザヤ書261節~6 (旧約P.1099
フィリピの信徒への手紙48節~9
(新約P.366
祈 り              伊木 美穂子                                                                                                                                                                                                                                                          
*讃美歌  (21)536
  教 平和の神はあなたがたと共にいる
 三 輪 地 塩  
                                                       
 
<神への応答>
 
*讃美歌  (21)433〔14
*十 戒
 公 告  
*献金感謝 
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏