<3月26日の説教から>
『わたしは決して信じない』
ヨハネによる福音書20章24節~31節
牧師 三輪地塩
現 |
代社会は、五感と体感で「知る」事を大事にする世界である。「実体」がなければ、「存在しない」と見做される時代。それが実証主義のこの世である。
復活のイエスに出会う前のトマスは、まさに我々の写し鏡のようである。疑い深く、実証主義的に、イエスの復活を「五感で知ろう」とする。だがイエスが現れた。その時既に五感を超えて「私の主、私の神よ」と信仰を告白した。
他の弟子たちもトマスとは異なる疑い、つまり世間に対して疑心暗鬼になっていた、彼らは怖がって家の戸に鍵をかけ、ひっそりと隠れて過ごしていたのである。当然我々も同じような状況に立たされる事がしばしば起こる。「恐れて」「自分に鍵をかける」のだ。どんなに明るく、前向きな性格であっても、「恐れて自分自身に鍵をかける」事は、起こりうるのである。「周囲からの疎外感を理由に」「人の目を気にして」「誰とも接触したくない思いから」、我々はあらゆる場面で自らの心に鍵をかけるのだ。そう、我々の心は極めて閉鎖的なのである。
けれども聖書は、「それで良い」と語る。なぜなら自分の殻に閉じこもった弟子たちの「真ん中に」主は立ち給うからだ。「あなたに平和が(シャーロームが)あるように」と、鍵を閉めて嘆き悲しんでいる彼ら(そして我々の!)間に、立ち給う。我々は何も恐れる事は無い。主が来られる事をただ待ち望みたい。
パスカルという宗教思想家は次のように言った。
「『奇跡を見たら、私の信仰は強められるであろうに』と人は言う。人がそう言うのは、奇跡を見ないときである。……ところが、そこに達すると、さらにその先を眺めようとする。何ものも、我々の精神の回転を止める事はできない」
つまり、人間という生き物は、「奇跡を見れば信じられる」と言うけれども、もし本当に奇跡を見たとしても、「それは手品ではないのか」「カラクリや仕掛けがあるに違いない」、などと言って、それを疑う心が新たに起こってくるだけなのだ」と。確かにパスカルの言う通りだと思う。
だが主イエスは、このような疑い深い我々に対し、御自分の側から近づき、ご自分の復活を見せて下さる。我々からではなく、主が我々に近づいて下さる。我々は、その近づかれる主を受け入れ、信じるだけである。