士師記が終わり、次週からルツ記に入ります。4章しかない小さな書物ですが、聖書全体を通して重要な位置を占めるルツ記を共に学びましょう!!
10月25日の礼拝予定
主 日 礼 拝 午前10:30
【宗教改革記念日・神学校日】
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
招 詞 エフェソの信徒への手紙5章14節 b
*讃 詠 546
*罪の告白と赦し 交読詩編38編16節~23節
*讃美歌 15
<神の言葉>
聖 書 レビ記19章15節~18節 (旧約P.192)
ヨハネによる福音書7章45節~52節
(新約P.180)
祈 り 河 野 武 郎
*讃美歌 534
説 教 「ニコデモの弁護」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 267
*十 戒
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 543
*派遣と祝福
*後 奏
10月18日のコンサート!
10月18日の礼拝予定
主 日 礼 拝 午前10:30
【秋のオープンチャーチ・80周年記念コンサート】
奏楽 岩 本 道 子
<神の招き>
招 詞 エフェソの信徒への手紙5章14節 b
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編38編1節~15節
*讃美歌 (21)6
<神の言葉>
聖 書 詩編55編23節 (旧約P.889)
使徒言行録3章1節~10節(新約P.217)
祈 り *讃美歌 (21)484
説 教 「キリストの名によって歩きなさい」
三 輪 地 塩
<神への応答>
e="line-height:12pt;">*讃美歌 (21)493
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 (21)46
*派遣と祝福
*後 奏
8月30日の説教 ヨハネ福音書7章1節-9節
<8月30日の説教から>
『わたしの時はまだ来ていない』
ヨハネによる福音書7章1節~9節
牧師 三輪地塩
イエスの兄弟(主の兄弟)たちが批判的に描かれている。ここには主の兄弟が重んじられるという血統や家系を重んじるという「初代キリスト教会へのアンチ」が込められているのではないだろうか。ヨハネ福音書が書かれたAD90年頃は主の兄弟たちが重んじられる教会の政治体制、特に総本山としてのエルサレム教会に権威が集中しているあり方を批判しているのではないかと思われる。つまり我々の信仰とは、イエスの血筋であるから偉いとか、「イエスの兄弟であるから崇敬に値する」ということになった場合、そこにはキリストの福音に反する価値観による評価が起こってしまうと言おうとしているのではないだろうか。「私の親兄弟とは誰か、ここにいる者たち、御言葉に聞き従おうとして集まっている人たちが、私たちの本当の兄弟姉妹である」、と主イエスは言われた。それは我々の信仰が、御言葉に立っていることを示すものであり、神の救いが人間的な、家系、血族、家柄の中には無い ということを表わす言葉であろう。
キリストは誰のために死なれたか。それは世のすべての者たちのためである。キリストと同じユダヤに生まれた者たちだけ族のためでもないし、イスラエル民族だけのためでもない。キリストは世を救うメシア、キリストであられた。十字架がそれを示している。しかし「イエスの兄弟たち」はそれが理解できなかった、最後まで目に見えるものや事柄に引っ張られていたのである。
翻って我々現代に生きるキリスト者はどう生きることが求められるのか。それは「御言葉に立つ」という信仰の在り方である。我々は目に見える事柄に流される。奇跡的な出来事があると、そこに神の姿を見ようとしてしまう。しかし本当の神の姿は「素晴らしさ」の中にあるのではなく、「痛みと苦しみの中」にあったのだ。その命を捨ててまで我々を愛される姿の中に、本当の神の姿を見、その神こそが、我々を罪から救い、神と共に生きうるものとされる「贖い」があるのである。我々は教会において、神に愛される兄弟姉妹として共に生き、生かされたいと願う。
8月23日の説教
<8月23日の説教から>
『実にひどい話だ。こんな話は聞いていられない。』
ヨハネによる福音書6章60節~71節
牧師 三輪地塩
「肉は何の役にも立たない」(63節)は心に突き刺さる。人類はその歴史の多くの場面でこの言葉が真実であることを否応なしに思い知らされてきた。
8月6日に放映された「原爆は止められなかったのか」という番組(NHK)を観て、これは本当に人間の罪がなせる業だったことを思わされた。番組では、大日本帝国のかたくな な戦争への意と、米英露の戦後を見越した覇権争いが原爆の使用を促進させたという、これまでも何度も聞いてきた歴史観であったが、驚いたのはトルーマンの言葉である。「Beastたち(つまり日本人たち)に戦争を終結させるには原爆しかない」という意味の言葉を 時の大統領が残しているのである。ビーストとは「野獣」であり、この文脈から翻訳すると「あの日本のケダモノたち」とか「日本の畜生たちが」という感じになる。そして彼らは平和を語るのである。あのままにしておけばもっと戦死者が出たのだから原爆程度の犠牲者で済んでよかった、それがアメリカが成し得た最も平和的な解決だという論理である。当然ながら日本は、アジア全土で悲惨な殺戮を続け、大東亜共栄圏という理想郷を作り上げることが平和なのであると語っていたのだから、連合国側を批判できる立場にない。つまり、こっちが悪いあっちが悪い、という因果を超えて「人間の行いは悪い」ということに気づかされるのである。あの戦争によって我々は、人間の無し得ようとする「平和」が、人間の業とエゴの結晶化であることを示すのである。人類は肉的な思いに囚われ、肉的な考えと行動によって行いを進めれば、そこには殺戮と破壊、破滅と悲惨しか造り出せないということである。それが「肉のなす業である」ことを改めて思わされる。
「肉は何の役にも立たない」という言葉と共に「そこに神がおられなければ」という真理に出会うのである。
昨今の悲惨な事件や事故の数々は、我々人間の肉の業による最たるものであろう。そこに神がおられるのか。我々はこの真実の下で行動し、歩まねばならないのである。