6月28日 礼拝予定
聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー2015年4月~ 士師記
2015年6月7日の説教 ヨハネによる福音書5章31節~40節
<6月7日の説教から>
『聖書研究』
牧師 三輪地塩
キリストをどう理解し、聖書をどう読んでいるか。我々は聖書からいつもこの問いを受けている。信仰によって読み、信じるという視点から読むことによってはじめて この一冊の書物は、単なる本から一冊の聖なる神の御言葉として立ち上がってくるのである。
現代人である我々は、あの38年間床に伏せていたベトザタの男性が起き上がったことを信じ、そこに信ずべき神を見出すことができるのか、という問いの前に立たされている。神の言葉としての聖書の出来事は、ほかでもなく我々に対して語られ、我々の救いのために語られている。我々はそのことに気付いているだろうか。38年のあの男性は、病気が治ったから奇跡が起きた、というのではない。聖書は癒しの業を行うことに注目させたいのではなく、イエスご自身が神の働きそのものであることを示している。この癒された男性は大変ラッキーなことであった。けれども現実は、我々は一生涯障害を抱えて生きねばならないことが起こり、寝たきりの生活を余儀なくされることもある。そのいずれの生涯においても「神の業は我々に十分である」と信じることが出来るか、そのことが問われている。
第二コリント12章9節で、体と心の弱さを受けた使徒パウロは言う。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。パウロは弱さの中にあって、主の恵みは「十分である」と言い切る。そう信じることが出来る神との関係が大切である。
我々が聖書を読むとき、このような信仰と共に読むべきであろう。神の独り子を証しする書物として読むこと。この聖書を神の言葉と理解し解釈し、その中に神の恵みが十分であることを見出し信ずること。それこそが我々が御言葉を聞きそれに応答する責任である。
御言葉は既に語られている。キリストがこの世に来られた時から御言葉は我々の傍らにあるのだ。それに適切に応答しそれを受け入れ、それを信ずることの出来るものとなるよう、祈り求めたいものである。
2015年5月17日の説教 ヨハネ福音書5章19節~30節
<5月17日の説教から>
『死から命へと』
ヨハネによる福音書5章19節~30節
三輪地塩
ユダヤ人は怒っていた。イエスが、神を「父」と呼んでいるからであった。我々は「父なる神」という語り掛けを当然だと思うかもしれないが、ユダヤ人には地雷となる。彼らにとって神は「創造者」であり、人間とは全く相いれない、「聖にして」「別格の存在」であった。彼らの神は「絶対他者」であった。しかしイエスは神を「父」「おとうさん」と親しげに呼んだのである。ヘブル語では「アッバ」と言う。アッバは親しみを込めた呼び掛けであり、近しさを意味する。イエスにとって神は「近しい方」であり、ひいては我々信仰者に、神との近さを伝えようとしていたのだ。5:18では「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」とある。ここに決定的な神観の違いが生じている。十字架へのカウントダウンが始まろうとしていた。
人間の罪深さは神を遠ざける。否、神は人間を罪深さのゆえに遠ざけざるを得ない、と言い得るだろう。そこには絶対的な隔絶があり、断絶がある。それは正しい。しかし我々は「キリスト」という「真の神であり、真の人」であるお方のゆえに、神に近づける者となる。遠い存在を近い存在として、相いれない絶対他者が、「隣人となられた」それがキリストがこの世に生まれたこと(つまり“受肉”)の意味であり、そこに我々の救いがあるのだ。
いみじくもユダヤ人たちの指摘は正しい。神は絶対他者である。しかしキリストの十字架と復活の光に照らされるならば、間違っている。神は隣人と「なられた」のだから。