創世記41章1節-57節 2011年5月26日
この41章は、いよいよヨセフの夢解きから新しい地平が広がっていく様が描かれていきます。実は40章が終わっても、37章の終わりの部分と何も状況が変わっていない。彼は40章の終わり部分でも、尚忘れ去られた者として位置づけられている。物語の展開はこの章に至るまで引き伸ばされている。ヨセフはただ待つだけであった。
神は給仕役の長に、ヨセフのことを忘れさせていた。我々は「給仕役が恩を忘れてしまった」とか、「そもそも恩だと思っていなかった」というように考えます。しかし41章に至って思うのは、これは神によって「忘れさせていた」ということではないかということである。コヘレト3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)とあるように、彼が忘れられていたのは、神が忘れさせていたからである、ということが分かる。
神は給仕役の長に、ヨセフのことを忘れさせていた。我々は「給仕役が恩を忘れてしまった」とか、「そもそも恩だと思っていなかった」というように考えます。しかし41章に至って思うのは、これは神によって「忘れさせていた」ということではないかということである。コヘレト3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)とあるように、彼が忘れられていたのは、神が忘れさせていたからである、ということが分かる。
ファラオに夢を解き明かすことが出来る者はいなかったとある(8節)。しかしエジプトという帝国内で、その技術を誰も持っていないとは考えられない。つまり「いなかった」のではなく、「恐くて解き明かせなかった」という事なのかもしれない。「触らぬ神に祟りなし」「沈黙は金」「キジも鳴かずば撃たれまい」ということである。変な夢解きをすることによってまたファラオの怒りを買うかもしれないし、事と次第によっては処刑もありうるからである。
ここで給仕役が昔の出来事を思い出す。ヨセフがファラオの下に呼び出され「お前は夢を解き明かすことが出来ると聞くが」と言われると、ヨセフは「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げているのです」と答えた。権力者の前で臆することなく答えるヨセフが神の権威の中にあることを示す。
ここで給仕役が昔の出来事を思い出す。ヨセフがファラオの下に呼び出され「お前は夢を解き明かすことが出来ると聞くが」と言われると、ヨセフは「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げているのです」と答えた。権力者の前で臆することなく答えるヨセフが神の権威の中にあることを示す。
彼はファラオに夢を解き、今後のエジプトの身の振り方を提言する。「聡明で知恵のある人物をお見つけになってエジプトの国を治めさせ、~」(33-34)。この提言を聞き入れたファラオはヨセフを宮廷責任者として登用した。
ファラオは彼に「ツァフェナト・パネア」という名前を与え、オンの祭司ポティフェラの娘アセナトを妻として与えた、とある。「ツァフェナト・パネア」という名前は「神が語るのでその彼は生きる」という意味のエジプト名である。また、オンという場所は後に「ヘリオポリス」と呼ばれる、太陽神を礼拝する大神殿がある場所である。ここの祭司は非常に位が高かったと言われている。そこの娘が与えられたのである。
ファラオは彼に「ツァフェナト・パネア」という名前を与え、オンの祭司ポティフェラの娘アセナトを妻として与えた、とある。「ツァフェナト・パネア」という名前は「神が語るのでその彼は生きる」という意味のエジプト名である。また、オンという場所は後に「ヘリオポリス」と呼ばれる、太陽神を礼拝する大神殿がある場所である。ここの祭司は非常に位が高かったと言われている。そこの娘が与えられたのである。
エジプトには飢饉が起こり、全てヨセフが解き明かした通りになった。しかし「エジプトには全国どこにでも食料があった」(54節)のであった。その後も飢饉が激しくなっていくが、何とか耐え凌いでいくのであった。
今日の箇所にテーマをつけるとしたら何とつけるだろうか。「ファラオの夢を解き明かしたヨセフ」「ヨセフによって飢饉に備えたエジプト」「エジプトのナンバー2に上り詰めたヨセフ」。しかし考えておきたいのは、「ナイル川」が一つのテーマであるということ。ここでのナイル川は、単なる地理的な名称ということではなく、エジプトの豊穣であり、豊かさであり、命の根源である、ということ。そしてエジプトという帝国やその文化を言い表した象徴である、ということである。生命を生みだし、豊かさの保証をするのは、このナイル川である。ナイルやその生命機構が衰退するということは、エジプト帝国それ自身のの中に生命力を保有していないことを意味している。ナイルはエジプトの賜物と言ったのは、古代歴史家ヘロドトスであったように思うが、それは的を射ている。モーセが出エジプトの時に、ナイル川を血に染めて甚大な被害を想定させて見せたが、それはエジプトの豊穣と生命維持との危機を見せたのであった。今、ファラオの夢によって、ナイル川が象徴されるように、この帝国が破壊され、ここが命を起こす生の場所ではなく、死の場所となることの暗示であった。
帝国の命を生ぜしめる象徴。それは数年前「アメリカ大帝国」が資本主義という彼らの生命の根源が脅かされその存続すらも危機に晒されたように(リーマンショック、サブプライムローン)、また、「日本国」の命であり、生命線として象徴される「技術力」という神が、その根源に生命を有していないことが明らかになった、今の現状(福島ショック)において、我々は、生命の根源に何を見、何を聞くのであろうか。
この41章は、エジプトの無益さ、無能さ、また生命の根源とそれを与え、生命を可能にする場所がどこにあるのかを、帝国と神の業が、よく示しているのではないかと思う。帝国には死があった。しかしヨセフが現れてからは生命が生じた、のである。
この章において、ヨセフは一貫して神中心の立場にある。そして世界の偉大な帝国の王であるファラオも、最後にはこの神と関わらねばならない。16節、25節、28節、32節には、エジプトの地にアブラハムの神が力を行使することが、臆することなく語られている。
未来を統べ治めるのは、帝国の目論見でも、ファラオの知恵でもなく、またヨセフの解釈でもなく、神それ自身である。生命を与え、死をもたらし、ナイルに産ませ、ナイルを死滅させる神。飢饉をもたらし、命を維持されるのも、この神なのである。