創世記33章1節-19節 2011年3月31日
32章では「ヤボクの渡し」で神と格闘する。正確には「神の使いと思わしき者と格闘する」のであった。ヤコブは大腿骨をいとも簡単に外された。そこで神の力に驚く。彼はここで肢体不自由となったのであろうが、そこで神との出会いを受けた。
1節-2節、6節-7節の順序は何を意味しているのか。好きな順番という感じがするが、もっと具体的に言うと、大事な順に挨拶をさせていき、安全をはかっていった、ということである。最初にエサウと会わせて大丈夫なら次、という感じであった。今ではこのようなことはまかり通らないと思うが、古代の話であることを前提にするとこれはまかり通るのであった。
エサウは走りよってヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口付けし、共に泣いた。放蕩息子のたとえの中で、父親が放蕩の限りを尽くして帰ってきたろくでもない息子を快く迎え、帰ってきたことを大歓迎し、祝いの宴をもうけた。あの放蕩息子のように、ヤコブは出迎えられたのである。しかしなぜこのように和解できたのだろうか。
それは「7度地にひれ伏した」という言葉が現している。普通敬いとしてひれ伏すのは3度と決まっていた。しかし王に謁見する時ばかりは7度ひれ伏す、と決められていた。つまりヤコブはエサウに対して、王に対するのと同じ7度ひれ伏して思いを表した。それによってエサウの心が何らかの仕方で変化したかどうかは分からない。聖書には書いていない。しかしエサウにとって400人のお供を連れてヤコブを迎えに来たことから鑑みると、エサウの中に全く警戒心がなかったかというとそうではないと感じる。つまりエサウはヤコブに不信感を抱いていたのだ。ヤコブも不安だったがエサウも不安だったのだ。
しかし不安は7度のひれ伏しによって解消されたと言える。それはヤコブの悔い改めであった。彼は自分の行いに対して、悔い改めをもって兄を敬った。あの放蕩息子は父から受け継いだ財産を全て使い果たし、一文無しになったのであるが、あの息子は自分のふがいなさと間違いに気付き、自分の生きる場所に戻りたいという悔い改めをもって父の元に返ってきたのだ。それを父は受け入れた。
エサウはこの父と全く同じであるかどうかは別として、いずれにしてもこの中に書かれているのは、悔い改めと赦しという出来事なのである。
ヤコブはプレゼントを渡そうとする。彼はこれを是非受け取ってもらわねばならなかったものなのであった。しかしエサウは最初は遠慮する(9節)。しかし是非に、という言葉に促されて「しきりにすすめたので」(11節)受け取った。
このように11節まではヤコブが兄エサウと和解するまでの出来事が描かれていた。しかし12節からは少し変わってくる。「さあ一緒に出掛けよう」(12節)。「わたしが連れている者を何人かお前のところに残しておくことにしよう」(15節)。エサウの申し出を何度も断り続けたヤコブは、なぜこのようにしたのであろうか。
それは、ヤコブがまだ警戒していたからである。一緒に行こう、という申し出も、護衛の者をつけてやろう、という申し出も、断ったのは、つまり早くエサウと別れたかったからである、と考えることが出来る。ヤコブは大変慎重にことを進めようとしていたのである。まだエサウを信じきっていなかったと言ってもよいかもしれない。それはエサウの好意に疑いを持っていたから、というよりも、自分の内なる思い、つまり自ら犯した罪の重さが彼をそのように疑い、不安し、恐れさせていたのであろうと思う。
しかし今日の箇所で注目すべき言葉がある。それは10節である。「いいえ、もしご好意を頂けるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取り下さい。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。この私を温かく迎えてくださったのですから」。
この言葉は少なからず戸惑いを感じさせる。それは兄の顔が神の顔のようだ、と言っているからだ。うがった見方をすれば、人間を神格化しているかのような言葉として受け取られてしまいかねない。しかしこの言葉は非常に重要である。実はこの箇所はヤコブとエサウの再会、という一連の出来事の流れの中で「顔」が一つのモティーフとして現れている。32章20節「~ヤコブは贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば~」。32章31節「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」。そして33章10節である。
ここで考えたいのは、ヤコブは兄の顔を見ることが神の顔を見ることに似ている何かを見つけたということである。聖なる神の中に疎遠な兄の何かがあり、赦す兄の中に祝福する聖なる神の何かを見出したのである。ヤコブは兄の顔を直視できなかった。しかし直視するために彼は、なだめの贈り物を捧げ、7度ひれ伏し、最善を尽くして罪の贖いを求めた。我々が神の顔を見ることが出来ないのは、我々が罪を持っているからである。我々が顔向けできない神に対して、我々その御顔を仰ごうとする。それは罪の告白と赦しの中で、神と人間の関係が正常化していくことによって、神の顔を仰ぐことへと向き直らされていくのである。言い換えるならば、ヤコブは自分の罪の重さに気付いていたために、神の顔を見ることの出来ない思いを持っていた。私たちも、嘘をついたとき、悪い事をしたとき、何か自分の中に顔向けできない何かがあるとき、その当事者の顔を見ることができないように、我々は神の御顔を仰ぐことができないのだ。
そして、この10節の言葉から考えられるのは「赦しという行為が存在する中に、神の存在が垣間見られる」ということである。エサウは神ではないし、神と呼べる何物も持っていない。しかし罪を犯したヤコブにとっては、兄の赦しは、神の赦しに匹敵するようにさえ思えた大きさを持っていたのである。勿論聖書も、神とエサウを混同してしまうような読み方を許しているのではない。しかし、天上の事柄と地上の事柄が全く乖離されたところにあるのではないということ。世俗的な事柄と神聖な事柄が全く相容れないものではなく、その両者の中にある、何かをここに見出すのである。
大事なのは、「エサウが赦し得たことを賞賛する」ことではない。また、「ヤコブが7度ひれ伏したから赦した」というような、原因と結果の事柄としてエサウの赦しを捉えることで
もない。ヤコブは兄と出会う事を求められていたし、兄は赦す事を求められていたということである。もっと突っ込んで言うならば、32章で大腿骨を外されたヤコブが、その後片足が不自由になって生きる事を余儀なくされたことを通して、その不自由さを神の自由の中で祝福として受け止めたとき、そこに神の存在が立ち上がったのであろうと思う。さらにエサウがヤコブに父からの祝福を奪われてしまい、殺意を抱くまでに憎んだあの出来事を通して、その中にある神の御旨と御意とを受けとめ、その喪失を絶望と受け取らずに神の与え給う喪失であると受け止めたとき、そこに神の姿が立ち上がったのではないかと思うのである。