創世記30章25節‐31章16節 2011年2月17日
ラケルとの子どもであるヨセフが生まれるや否や、ヤコブは故郷に戻る事を決意します。それはラバンとの争いの始まりを意味していました。ラバンはヤコブに対し、巧妙で注意深い言い方によって彼を引き留めようとします。ヤコブは20年もの間、ラバンのところで働いてきました。もともと7年の約束であったわけですが、それが14年に延び、その後さらに6年間ラバンの家に留まって働いていたのです。これは現代的には不正就労と言えるでしょう。リベカを嫁にやったのだからもう少し働いてくれ(・・と言った」かどうか分かりませんが)そのままヤコブを働かせていたのです。14年がもともとの労働契約であったのが、ラバンの巧みな言葉に言いくるめられたのです。
ラバンは不正に働かせることによって多くの恵みを受けました。当時は多くの財産を得ることは、その家が祝福されている証とされましたから、ヤコブによってもたらされた恵みは、そのままラバンへの祝福となったのです。しかしラバンはここで得たものをヤコブと分け合おうとしませんでした。ラバンは得た恵みを全て自分の懐に入れようとしたのです。現代的には「業務上横領」的な悪だくみであります。そのやり方はまさに詐欺的な掠め取りでありました。
ヤコブの願いは愛する妻子たちとの独立でした。所謂「暖簾け」を求めたのですが、これは、当時としてはごく自然に行われていたものと考えられます。かつてアブラハムの僕達と甥のロトの僕達との折り合いが悪くなった時、ロトへ暖簾分けとして「肥沃な土地」を選ばせたアブラハムの姿に私たちは感銘を受けました。アブラハムは本家の優越を捨てて、分家に選択権を与えているのです。自分の場所はどこでも良いから、これからの(若い)人「ロト」のために、好きな場所を選ばせたのです。
しかしこの箇所でラバンが行なった暖簾分けは、ラバンにとって格段に有利であり、ヤコブにとって不利な条件が提示されています。ヤコブは自分の置かれている立場上、強く権利を主張するわけにもいかず、不利な条件を飲むしかなかったのでしょう。本来ヤコブは、彼の功績から言って、ラバンよりも多くの財産を分けてもらう権利をもっていました。しかしラバンに有利なものにしておかないと、独立する承諾を得られないと考えたのでしょう。ヤコブはこの不利な条件を自ら提示したのです。ここでラバンとヤコブとの間に不平等条約が結ばれました。
ここで出されたのは、羊とヤギの、しかも黒みがかったもの、まだらとぶちのある見た目によごれのあるものだけを下さい、というものだったのですが、しかしラバンはそれすらも渡す事を惜しんで、裏工作を行い、息子たちにそれら黒味がかった家畜たちをあらかじめ手渡していたのです。あたかも現代の欲深な資産家が、儲けの大半を税金に持っていかれることを拒んで、家族に別会社を作らせ、そこに資産を分けて脱税するかのように、巧みなやり方で、一つの財産も渡すものかと躍起になっている様子を見るのです。
ヤコブはラバンにとって義理の息子であり家族であります。勿論、当時の家や結婚の感覚が、今の企業間の買収とM&Aの関係などに似ている、と何度も言ってきましたが、その観点から鑑みるならば、娘の夫であるヤコブは他の企業の社長であり、ラバンの実の息子たちが「ラバン ホールディングス」の系列会社ということになります。ですから出来るだけ財産の流用を押さえたい、という思いが働いたのでしょう。しかし誰のおかげでここまでの財をなしたのかを考えれば、ヤコブの功績を認めれば良いと思うのですが、彼はそうしませんでした。ラバンはそれを失うことが惜しかったのです。ですから彼は占いの結果とでも何とでも言いながら、ヤコブに労働力として留まらせるように説得したのです。
しかしヤコブに対する主の導きはラバンのところに留まることではありませんでした。あくまでも悪条件を提示してまでも独立することだったのです。32節以下に書かれているヤギと羊の条件に対してラバンは息子に税金対策的な策略を施すのですけれども、それに対して37節でのヤコブはそれよりも一枚上手であったことが分かります。しかし「ポプラとアーモンドとプラタナスの木の枝を取ってきて皮をはぎ~」と書かれているこの行為は、一種のおまじないのようなもので、これをしたから効果があった、というものでありません。しかし彼は神の御手に従って、圧倒的に強い叔父ラバンの策略をかいくぐって、自分たち家族の独立と財産分与のために戦う姿を見ることができます。結果的にここで起こったのは、白いヤギと羊から、黒みがかったものと、まだらとぶちのあるものが多く生まれ、それが全てヤコブのものとなっていった、という事が示されます。人間の策略の中に生きたラバンと、神の導きに生きたヤコブの対照的な結果が表されます。
さて31章に入りますと、今度はラバンの息子たちがヤコブに言いがかりをつけています。「父のものをごまかして、あの富を築き上げた」とは、随分な言い掛かりです。むしろヤコブのものをごまかしてあの富を築いたのが父ラバンであることに息子たちは気付いていないのでしょうか。しかしその後「故郷に帰りなさい」という主の言葉を聞いたヤコブは、その決心を固めていきます。「わたしの報酬を10回も変えた」と言われているのは、ヤコブに約束された条件(黒みがかったとか、まだらだとかいう条件)をコロコロと変えている状況が言われています。ラバンはその都度条件を変え、「やはり黒みがかったのは私のだ」とすれば今度は白い羊ばかりが生まれ「やっぱり白いのが私のだ」と条件を変えれば黒いのしか生まれてこなくなる、という状況を言っているのでしょう。つまりヤコブの策略ではなく、創造者である神様が為さりたいようになさった結果が示されているのです。
確かに人間の目には明らかに神がかった出来事ですからラバンの息子たちは不正と受け取ったのでしょう。しかしこれこそが神のなさったことであったのです。つまりヤコブをもといた故郷に戻すための準備をなし、そのための蓄えと、それ以降の生活のための備えをさせていたのです。
今日の箇所で最も印象深い言葉は「私はあなたと共にいる」という言葉と、そして2節と5節にある「あなたたちのお父さんは、私に対して以前とは態度が変わった」という言葉であります。ヤコブはラバ
ンを主人としてこの20年間働き続けてきました。しかしいざとなるとラバンは、自分の私利私欲のために条件を変え、何とか自分の私服を肥やし、一生懸命働いたヤコブのためには何もしませんでした。最終的な暖簾分けの時でさえも裏工作をして、実の息子たちにあらかじめ財産分与をし、財産の流出を押さえようと躍起になったのです。その条件は自分の有利なように、10回も変え続けたのです。自らの利益のためにコロコロと蝙蝠のように条件を変え続けるラバンの姿(人間の姿)をここに見ます。聖書は、は「あなたたちのお父さんは私に対して態度が変わった」という言葉に示されるように、これこそが「人間の主人である」と言っているのです。
しかし神は如何なる方であり給うのか。神は我らと共にいまし、今いまし、昔いまし、永遠に居まし給う方。「草は枯れ、花は散る、しかし私たちの神の言葉は永遠に変わることがない」と言われた、変わらぬ真実と真理をお持ちの主人。この方こそが「我々の神である」と聖書は言うのです。
そして今や、ヤコブは20年もの逃れの生活終止符を打ち、故郷に戻る事を決意するのです。それは「父と母の待つ場所」を意味しません。母はもうおらず、衰えた父と、自分を憎む兄の待つ困難な場所。諍いを投げ出して逃げてきたあの場所、一度時間の止まったあの場所に、和解と悔い改めを求めて、もう一度戻る事を決意するのです。これまでの経験と導きが、ヤコブをどのように変えたのか。果たしてエサウの怒りと憎しみはどのように変えられたのか。もしくは変わっていないのか。その場所に向けて、決して容易ではない場所に向けて歩みだすのであります。