創世記26章1節-35節 2010年12月16日
ここでは、既に見られた物語がもう一度出てきます。「自分の妻を妹であると偽る話」は、12章と20章にありました。そして26章では、20章のそれと同じように、アビメレクの名前やゲラルという地名においても重複する内容と言えると思います。多くの旧約学者は20章と26章は同じ文献の枝分かれしたものとして考えられる、と言います。しかも20章が先にあるのではなく、26章がオリジナルで20章はそこから出来た、と言います。
しかしだからと言って、この26章が無意味な重複文章であると言って片付けることは出来ません。むしろ、わざわざ同じ物語をもう一度使っていることの中に、著者の意図を読むことが出来ると思います。
ここで語られている「イサク」という人物は、皆さんにはどのようなイメージで映るでしょうか。そもそも私たちは「族長物語」として12章のアブラハムの旅立ちから、創世記を読み進めていますけれども、アブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、中でも一番影の薄い人物がこのイサクであると言ってよいと思います。先週の箇所25章に関しても、イサク物語でありながら、内容を占めていたのは、ヤコブとエサウのやり取りでありました。イサクは脇役に過ぎません。
しかしこのようなイサクですけれども、多くの聖書学者や、注解者たちは「平和の人イサク」と彼をそう呼ぶのです。確かに事を荒立てないところなどを見ると、彼の平和主義的な性格を読み取ることが出来ると思います。
この箇所で、イサクは一切逆らっていません。神に対しても、アビメレクに対しても、彼の人生に対しても、全く逆らわずに、神の命ずるままに生きているのです。それが彼を平和の人、と言わせるゆえんであるのかもしれません。
しかし見方を変えてみると、イサクは優しい平和主義者であると同時に、非常に頼りない人物であると言うこともできます。たとえば、井戸の話なんかはそれが強調されます。中東という場所は、ご承知の通り水が命です。しかしイサクたちは15節以下にあるように、ペリシテ人たちの妨害を受けて、アブラハムから受け継いだ井戸を悉く塞がれてしまいます。しかしイサクは一切憤慨することなく、淡々としています。そしてペリシテの王アビメレクから「どうか、ここから出て行っていただきたい」と、追放勧告を受けるわけです。それに対して17節で、また淡々と「イサクはそこを去って~」と、何事もなかったかのように、アビメレクに従います。
そして移動した場所で、もう一度井戸を掘って水が豊かに出始めると、またゲラル(ペリシテ)の羊飼いから妨害を受けて、井戸を占領されてしまいます。聖書には、その井戸を「エセク」とか「シトナ」と名づけた、とだけ書かれていますが、つまりその井戸は奪い取られたということを意味します。しかし最終的に「レホボト」という井戸が掘られてから、妨害されることなく、ようやく自分の水を確保することが出来るわけです。この間、イサクは一切怒りませんでした。これは大変に穏やかな人である、という評価と共に、イサクの家の人たちからすれば「何と頼りない主人だろう」という思いをもたれても仕方ないようにも感じます。水の確保は生きるか死ぬかの生死の分かれ目ですから、それをいとも簡単に奪い取られて「取られたから次の井戸を掘りましょう」と言うことでは、あまりにも頼りなさ過ぎです。
さらにイサクの頼りなさは続きます。26節以下の、アビメレクとの条約の締結であります。ここではアビメレクが突然イサクのところにやってきて「主があなた共におられることが良くわかったので、あなた方とお互いの不可侵条約を結びましょう」という、自分勝手な条約締結を要求したわけです。しかも29節でアビメレクは「以前我々は、あなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました」と言っています。普通ならばこんな勝手な話はないと思います。イサクを妬んだペリシテ人たちが、主の祝福を受けているイサクに嫉妬して「ここから出て行ってくれ」と言ったのに、29節では「あなたがたには迷惑をかけていません」と言ってのけるわけです。
普通なら「とっとと帰ってくれ」と、そんな条約を結ぶはずもないと思いますが、イサクは違います。これまでのケジメをつけることなく、あっさりと友好条約を結んで、一緒に食事をして、帰らせてしますのです。こんな頼りない主人はいません。こんな上司、こんな夫についていく、とするなら、少々戸惑ってしまうかもしれません。
けれども、この人の良さと穏やかさをもっても、イサクは約束が成就されていくのです。それが26章全体を通して書かれている内容であります。26節以下のアビメレクの提案は、なんとも図々しく、自分たちが優位に立っている、という前提で提案されております。しかしイサクは徹底して争わず、従っています。穏やかであると同時に頼りない。あまり物事を考えているとは言い難い。それがイサクです。しかし聖書は「これもまた信仰者である」と言うのです。それがここに書かれている重要なメッセージであるのです。
私たちはこれまでアブラハムの信仰についてみてまいりました。そして今後ヤコブとヨセフについても見ていきます。それらの族長たちと比べると、没個性であり、力がなく、弱々しく、しかし徹底した平和主義者であり、悪く言えばあまり深く考えていないこの人物。これが神に守られ、祝福された信仰者の一つの姿であると聖書は言うのです。
今日の箇所26章全体を貫いて語られていることがあります。それが「神の祝福」であります。2節で飢饉が起こったとき、イサクは「そこに留まるように」と主に命ぜられ、「祝福を得る」と約束されます。12節以下では、イサクがそこの土地に種を蒔くと100倍の収穫を得、主の祝福を受けた、と書かれています。井戸を掘ったときも、何度も奪われながらも、イサクは豊かな水を掘り当て続けます。これもまた主の祝福の徴です。24節でも、29節でも「祝福されている」という言葉がイサクに告げられます。つまりこの26章は、神の祝福を受けた者は、どう生きるのか、について示しているとも言えるのです。神の祝福とは、人間の判断を超えたところに生きるということを意味します。飢饉が起きたとき、人間の考え
では、肥沃な土地エジプトに行くことが最善であります。しかし主はそこに留まりなさいと命ぜられ、それを守ります。それが祝福を確保するのです。井戸を取られたとき、人間の考えでは、戦うことが最善であるように感じます。武力でなくとも何とか交渉してその場所の権利を奪い返すのです。それが自分の命の担保となるからです。しかしイサクは、神が必ず井戸を掘り当てさせてくださる、という確信を持つゆえに、奪われたままにされ、もう一度掘り続けます。そしてそれによって神の祝福は確保されるのです。アビメレクの横暴な条約締結の申し出に対して、人間の考えでは断ります。それが過去の苦しみを受けてきた事への報復であると感じるからです。しかしイサクはその横暴さを意に介さず、あっさりと締結します。これが神の祝福を確保するのです。
このように、神の祝福を受けて生きる者は、人間の考えによってのみ生きるのではなく、神に身を任せて生きること、神のなさることに逆らわずに生きることの中に、自分の人生を重ね合わせて生き得る者となるのです。
身を任せるとは、努力をしないこととは違います。人間の意志や努力を越える神の意図を汲み取り、それに身を従わせることであります。
「こんな主のはしためから神の御子が生まれるなんて信じられません」と言っていたマリアは神に身を任せました。不貞の罪によって律法に違反したという疑いを払拭しきれないヨセフは、神の御言葉に身を委ねました。ヘロデの横暴により2歳以下の幼子が惨殺されたとき、二人はエジプトに下ることに身を委ねました。それは神の祝福だったのです。
イサクは確かに頼りない人物として映ります。アブラハムの冒険する心や信頼する強い心、ヨセフの向上心や、何としてでも奪ってやろうという野心は、イサクにありません。しかしこのような没個性的で地味で、目立たない彼もまた、アブラハムやヤコブと同じく神に祝福された一人の信仰者であるのです。
私たちには、それぞれの生き方があり、それぞれの性格があります。個性的な人も、そうでない地味な人もいます。教会の中でも、目立つ人もいれば、そうでない人もいます。けれども重要なことは、どれだけ目立つかではなく、どれだけ主を信頼し、主の祝福の中に自分の身を投じて生き続けることが出来るのか、ではないでしょうか。
イサクは人柄も良く、確かに平和主義者です。しかし彼が神の祝福を受けたのは、そのようなパーソナリティによってではありません。むしろどのようなパーソナリティであっても、神は選びの民を選び、自らの祝福の中に、一方的に入れてくださる方なのです。その祝福に自分もまた入れられている、ということを自覚してどのように生きるのか。そのことが重要なのであります。このような私でも、ということはありません。そのようなあなたこそが、神の祝福を受けるべき信仰者なのです。